春に熊の人身被害が増加
桜が花開き、春がやってきた。
山菜採りやハイキングに出掛ける人が増える季節であるが、日本最強の野生動物・熊が目を覚ます時期でもある。
環境省によると、熊の人身被害は4月から発生し始めて5月に増加する。日本には本州にツキノワグマ、北海道にヒグマの2種の熊が生息しているが、ヒグマは最大で体長230センチ・体重250キロにもなり、過去には重大な死亡事故も起こっている。
1915(大正4)年12月に北海道北西部の苫前(とままえ)村で発生した「三毛別羆(さんけべつひぐま)事件」は、10名の婦女子が殺傷され(死者7名、負傷者3名)、日本史上最悪の獣害と言われている。
この惨劇をもとにしたドキュメンタリー長編『熊嵐』(吉村昭・新潮社)では、臨月の妊婦を含む女性や子供が次々と犠牲になっていく様子が克明に描かれている。
また、苫前町には「三毛別羆事件復元地」があり、凄惨な事件を風化させまいとしている。地元住民が後世に語り継ぐ、戦慄の人喰いヒグマの凶行とはどのようなものだったのだろうか――?
(以下は『熊嵐』をもとに再構成したものです)
***
「おっかあが、少しになっている」
最初の被害者は、島川家の9歳の男の子だった。家の炉端に座っていながら身動きをしない様子を不審に思った者が仰向けにさせると、のどの部分の肉がえぐりとられていて、血液がもり上がり胸から膝へ流れ落ちている。また頭の左側部に大きな穴がひらき、そこから流れ出た血が耳たぶをつつみ、左肩にしたたっていた。
さらに、島川の妻の姿も見えない。島川家の尋常ではない様子に集まった村人たちが確認すると、寝室の布団は裂かれ、多量の血が染みついている。窓の枠板の裂け目にからまって根本から抜け落ちた、妻のものらしい多数の長い毛髪を見て、彼らは子を殺害して妻を運び去ったものが熊だと気づいた。
翌日、50名近い男性が集まり朝から山を捜索する。日が傾いた頃に島川の妻の遺体を発見したが、それは遺体と呼ぶには余りにも無残な肉体の切れ端にすぎなかった。頭蓋骨と一握りほどの頭髪、それに黒足袋と脚絆(きゃはん)をつけた片足の膝下の部分のみ。捜索隊の一人は、「おっかあが、少しになっている」と口をゆがめた。
10歳の少年が聞いた妊婦の断末魔
犠牲はこれだけに留まらない。その夜に行われた島川の妻子の通夜で被害はより拡大する。通夜の席に羆が板壁を破ってふみこみ、さらに近隣の家に身を寄せていた2家族の4名が殺害され3名が重傷を負わされたのだ。家の内部は凄惨そのものだった。血が床に流れ柱や天井にも飛び散っている。床と土間には肉と骨の残骸があった……。
4名の死者のうち3名は子供で、もう1名は臨月の女性だった。この妊婦が身ごもった胎児も、羆に食い尽くされていた。土間に積まれた雑穀俵のかげに潜んで奇跡的に助かった10歳の少年は、羆の荒々しい呼吸音にまじって、骨をかみ砕く音も聞いたという。さらに、「腹、破らんでくれ」と妊婦が羆に懇願する叫び声も彼の耳に届き、やがて気を失ったのだった。
また、この家の寝間で布団をかぶって難を逃れた老婆は、羆が侵入してきた時の様子を目撃していた。羆は、居間の壁をぶち破り、炉を飛び越えて入り込んできた。その荒々しい動きで炉にかけられた大鍋はひっくり返り火が消え、逃げ惑う人々はランプを蹴散らしてしまい家の内部が闇になった。その直前、羆を瞬間的に見た老婆は、その大きさは肥えた牛馬よりもはるかに大きく、特に頭部がいかつい岩石のように見えたという。
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- 羆嵐
- 価格:693円(税込)
老練の猟師が語る羆の女への執着
その後、集落の人々は近くの村に暮らす「クマ撃ち」の老練な猟師に助けを求めた。猟師は最初の被害者となった島川の妻子の遺体を確認し、子供の体が食われていないことを指摘してこう言った。
「なぜ子供を食わぬのかわかるか。最初に女を食った羆は、その味になじんで女ばかり食う。男は殺しても食ったりするようなことはしないのだ」
猟師の言葉を裏付けるように、羆が侵入した集落の家々では女性が使用していた湯たんぽがかみ砕かれていたり、女性の枕や腰巻がずたずたに切り裂かれてもいた。
村落の者たちを戦慄させた羆は、その後山に潜んでいたところをこの老練な猟師に撃たれて絶命した。心臓部に一発命中しても死なず、茶色い毛を逆立ててゆっくりと立ち上がったところに二発目の弾が額に命中して、ようやく動かなくなった。
こうして、三毛別を襲った羆の恐怖に、終止符が打たれたのだった――。
***
三毛別羆事件をモデルにした『熊嵐』では、自然と共存する中で人々が慢心する様子についても描かれている。犠牲者が出る前に、民家の軒下に吊るされたトウモロコシを羆が二度にわたって食い荒らしたが、その家の者は警戒せず周囲に伝えることもしなかった。さらに、最初の犠牲者となった島川の妻子の通夜を行う際には、妻の体の大半が食われていたことから羆の食欲は満たされ、山中深くに去っただろうと思い人々は警戒を解いてもいた。
行楽日和が訪れ、気分も明るくなるこの頃だが、自然への畏怖を忘れずに春を堪能したいものだ。
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