宝塚音楽学校の合格倍率は平均約25倍。そんな狭き門を乗り越えた9名の元タカラジェンヌを取材したノンフィクション『すみれの花、また咲く頃 タカラジェンヌのセカンドキャリア』が話題だ。
子供の頃からの夢を叶え、20代から30代半ばで宝塚を卒業していくタカラジェンヌにとって、「その後の人生」の方がはるかに長い。本書に登場する9名のセカンドキャリアも、会社員に大学生、専業主婦、俳優、振付師など多岐にわたっている。そんな彼女たちの「ライフシフト」には、人生100年時代を生き抜くヒントが溢れていた。
今回はその中から、現在会社員として働く元雪組男役スター・香綾しずるさんの章「海外で人の役に立つ仕事をしたい」を公開する。
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「私、宝塚をやめたらやりたいことがあるんです」
そう、彼女が話し始めたのは、宝塚を卒業する公演の楽屋でのことだった。いつになく真剣な口調に、付近にいた雪組の上級生も下級生も集まって、その後に続く言葉を待った。
注目されるなか、彼女はおもむろに口を開いた。
「スパイダーマンになりたい」
あの時、彼女を取り囲んだ人々が一瞬で解散した光景は、今でも忘れられない。
「私、そんなこと言ってました? 全然覚えてないなー」
とぼけているのではない、全開の笑顔で無邪気にそう答える彼女。それはまさしく予想通りの答えだったから、私は驚かなかった。
「きっと……海外に関係したお仕事がしたかったから、スパイダーマンって言ったんですよ。ほら……『人との繋がり』みたいな。ね!?」
当時の自分のよくわからない発言をどうにかしようとしている。真顔で説明されるが、やはりいまいち理解不能だ。自由自在に活躍する己の姿を、スパイダーマンというヒーローに重ねていたのだろうか。
「私、スパイダーマンの映画は見たことないんですけどね。なんでそんなこと言ったんだろう、ね?」
香綾(かりょう)しずるさん。山口県周南市出身で、愛称は「がおり」。2002年に宝塚音楽学校に入学し、第90期生として2004年に雪組公演「スサノオ」「タカラヅカ・グローリー!」で初舞台を踏んだ。そのまま雪組に配属されてからは確かな実力のある男役として活躍し、新人公演の主役を経験する。
舞台を締めるぶれない演技、色っぽいダンス、安定した歌唱が彼女の武器だった。CS放送の宝塚歌劇専門チャンネル「タカラヅカ・スカイ・ステージ」では軽妙かつ機転を利かせた進行役をつとめるなど、雪組に欠かせない存在として成長していく。
しかし入団から14年、人生の節目には新しいことを始めたいと考えていた彼女は、2017年に惜しまれつつ宝塚歌劇団を退団。卒業することに、迷いはなかったという。
歌、ダンス、お芝居となんでも巧みにこなす香綾さんに、ミュージカルや舞台への出演など、卒業後の華やかな活動を期待したファンも多かった。しかし、彼女が選んだのは、元タカラジェンヌとしては異色といえる道だった。
「ついこの間まで、鬼島又兵衛を豪快に演じて客席を笑いで揺さぶり、ショーでは一転、魅惑のコーヒールンバを披露していた男役スターの香綾しずるが、ベトナムで日本語講師をしているらしい」
香綾さんの卒業後すぐ、そんな話を聞いたが、にわかには信じられなかった。
「宝塚を退団したのが、7月。その後すぐに、『ベトナムの日本語学校で教えてみない?』と知人から声をかけてもらい、10月には母と一緒に現地を見に行きました。それで、もうその翌月から1人でベトナムに住み始めたんです」
子どもの頃の夢は、「お医者さん」だった。しかし、日本で診療したいわけではなかった。海外で、それも発展途上にある国で人の役に立つ仕事をしたい。そのためにお医者さんになる―そんな夢を抱いていたという。
スパイダーマンかどうかはともかく、宝塚を卒業する時にはすでに海外へ目を向けていたことは確かだった。お医者さんにはならなくても、海外で人の役に立ちたいという思いは、ずっと彼女の心の中にあった。だが具体的な展望はなく、ただ漠然とした夢でしかなかった。
一度現地を見たとはいえ、「ベトナムの日本語学校で講師をする」という、かなりざっくりとした仕事内容を聞いただけで渡航を決め、現地で生徒となる「ベトナム人技能実習生」が何なのかということすら後から知った。英語圏外へ行くにあたり、渡航までに覚えたベトナム語は挨拶と数字程度。
「不安よりも、楽しみが勝っていました。面白そうだからとにかく行ってみよう!って」
宝塚を卒業した後にしばらく休養期間をとる人も多いが、香綾さんはすぐに次のステップへ踏み出した。
「休むつもりはありませんでした。すぐに、何か新しいことを始めたかった」
退団公演では通常の公演以上に、やらなければならないことがたくさんある。心身ともにハードな環境に身を置いていたというのに、彼女はケロリと言ってのける。
「退団した千秋楽の翌日、全然疲れてなかったしね!」
宝塚での経験を活かすには?
現在、彼女が働いている日本アジア青年交流協会は、日本の企業と外国人技能実習生の橋渡し役を担っている。実習生が日本の技術、様々な分野の知識を学んで母国ベトナムへと持ち帰り、社会の発展や生活の向上を支える人材となるよう育成する。それが、彼女のいまの仕事だ。
外国人技能実習生が安心して学ぶためには、彼らがそれぞれの適性に合った企業に就職できるかどうかが重要だ。そのために協会では数回の面接と実技テストを行い、ベトナムのスタッフとも連携しながら実習生の採用をすすめている。
香綾さんが約1年間勤めたベトナムの首都・ハノイにある日本語学校は、日本アジア青年交流協会が直接運営しており、日本で働くことを希望し就職が決まったベトナム人が学んでいる。ここでは技能実習生を単なる働き手にする教育だけではなく、彼らの生活や学びを長期的に支えるための活動をしている。
海外の人と比べると、日本人は突出して几帳面で清潔好きだ。さらに職場では時間を厳守すること、礼儀正しい挨拶などが求められる。ベトナム人の生活とは違うことばかりだ。
学校で働き出した香綾さんはすぐに、語学の習得だけではなく、そもそも日本で暮らすための準備が充分ではないことに気が付いた。
ベトナムの文化を尊重することはもちろん大切だが、日本で就職するという目的がある以上は、日本流のやり方を身につけておいた方がいい。その訓練に懸命に取り組んではいたものの、ベトナム人スタッフだけでは限界があったのだ。
技能実習生を受け入れる日本の企業のため、そして何より生徒たち自身が日本で自立し安心して生活を送れるようにと奮起した香綾さんは、学校の改革に乗り出した。
彼女が最初に取り組んだのは、掃除の指導。朝だけだった掃除の時間を、昼と放課後にも増やして、全クラスを見回ってやり方を教えた。
「大切にしていたのは、生徒が自主的に掃除をして、ゴミや汚れに気付くようにすること」
当時の宝塚音楽学校の掃除は、徹底的に厳しいことで有名だった。窓枠の埃を、筆で払う。ピアノの鍵盤を磨くのは、綿棒。ベトナムの日本語学校では、さすがにそこまでしなかったが、隅々まで完璧に掃除をするやり方を知っていたのは指導の助けになった。
掃除だけではなく、挨拶の仕方や整理整頓、団体行動といった生活全般の指導には、宝塚で学んだことが大いに役立った。
「細かいことを丁寧に伝えるようにしました。例えば、教科書を机の上に置く時には角を揃える。列にきれいに並んだり、皆で挨拶をする訓練のために、朝礼の時間を取り入れました。ラジオ体操もしたんですよ~」
思いついたら即、実行。香綾さんは現地スタッフにも教え方を伝授して、学校の指導体制を整えていった。赴任当時は10人ほどだった全校生徒数は、130人にまで増えたという。香綾さんの考えた方法が国内外で評価されたことが分かる数字だ。
教師の資格がないのに「先生」となるのには、どれほどの苦労があったのだろうか。
「全く問題ありませんでした。現場で大事なのは資格ではなく、日本の文化や考え方を正しく伝えることでしたから。日本で生まれ育ったきゃびいさんも、その存在自体がベトナムの生徒たちにとっては“先生”なんですよ」
実際に“先生”を経験した香綾さんだからこそ、語ることができる感覚だ。
そのように日常の細かいところからコツコツと改革を続けた香綾さんは、ベトナムに渡ってわずか半年後、現地の副社長に就任する。ベトナム人にとっては不慣れで厳しい規則が増やされたが、戸惑いや反発の声が上がることはなかった。そのやり方が日本で暮らすために必要なのだと、香綾さんが繰り返し伝え続けたからだ。
「ただ規則で縛るのではなく、協力して楽しくできるように工夫しました。つまんないと、続かないからね」
ベトナムの人たちはこまやかにメモを取る文化があるなど、学習に向いている面も多々あった。
平仮名は「あ」から。そしてカタカナ、数字といった日本語の基礎を教え、徐々にステップアップしていく。日本語を教えるのはもちろん初めての体験だったが、香綾さんに言わせるとこれで済んでしまう。
「意外と、なんとか、うまくいきました」
楽しい! 美味しい! ベトナム生活
ここで、ベトナムでの香綾さんの一日を見ていこう。
朝7時過ぎに出勤して校門前に立ち、登校してくる生徒たちに「おはよう!!」と声を掛ける(「これ! 絶対に、やりたかったんです!」)。
掃除と朝礼では生徒1人1人をチェックして様々な指示を出し、8時30分から授業が始まる。ベトナムにはお昼寝の習慣があり、赴任した当初は学校でも2時間のお昼寝タイムがあった。「これでは日本で働けない」と驚いた香綾さんは、お昼休憩を1時間に変えて日本での生活に近い時間割に変更した。
放課後の掃除の後に下校時間となるが、それでは勉強量が足りない。そこで、20時から22時までを自習時間として新たに設定した。でも、この自習時間中は、あえて生徒たちを見守ることはしなかった。
「日本に来てからも、彼らが自分で勉強し続ける習慣を身に着けて欲しかったので」
直感的な計画に見えて、実は綿密に考え抜かれた指導法だ。そのやり方は、宝塚時代の香綾さんにも通ずるところがある。
帰宅後は翌日の授業の準備や提出された日記の添削をして、あっという間に一日が終わる。
香綾流指導は成功だったようで、生徒はみんな学習意欲を持ち、積極的に学んでいたそうだ。
タカラジェンヌはかなり限定的で特殊な仕事であるはずなのに、そこで学んだことが異国の地でこんなにも役立つなんて―。驚く私をよそに、香綾さんはあっけらかんとしている。
「休日は近所のカフェでタピオカドリンクを飲みながら、日本の動画とかをひたすら見てた。6時間くらい!」
香綾さんが暮らしていたハノイのマンションにテレビはなく、家具も最小限。一年中蒸し暑い気候で虫がたくさん出没したが、生活は楽しかった。お隣のベトナム人の家族に呼ばれ、時々夕ご飯にお邪魔していたという話からも、彼女が現地に馴染んでいた様子がうかがえる。
唯一辛かったのは、ネイティブな日本語が恋しかったことくらい。素晴らしい人たちと出会い、街での生活を満喫したと、ベトナムでの日々を笑顔で振り返る。
「なんといっても、ハノイは食べ物が最高なの。なんでも美味しかった」
そう、香綾さんは美味しいものが大好きだった。宝塚のお稽古場や楽屋で美味しいお菓子の差し入れがあった時には、いち早くその匂いを嗅ぎつけて飛んできた彼女の姿が鮮やかに思い出される。
麗しき姿で煌びやかな舞台に立っていた香綾しずるが、そのわずか4ヶ月後にはベトナムでゼロからの仕事を始めた。新天地に飛び込んだ原動力は、一言でいうと「探究心」。
「海外へ行っていろんな人を知ると、日本の良い部分も悪い部分も分かる。たくさんの経験をして、視野を広げたかったんですね、私。スパイダーマンにはならなかったけど」
その言葉通り、香綾さんが語ってくれるのは紛れもない実体験だった。頭で考えるよりも、とにかく行動にうつす。人伝の知識に頼らず、なんでも体験する。そこから物事を理解し、自分にできることを実行していく。簡単なようで、なかなか実践できるものではない。
思えば、宝塚でも香綾さんは常に勢いのある人だった。悩み苦しむ暇などないくらい、いつも何かに挑戦することを本気で楽しんでいたタカラジェンヌ、それが「がおり」だった。
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- すみれの花、また咲く頃
- 価格:1,650円(税込)
大型新人男役、雪組に現る
香綾さんの母は、大の宝塚ファンだった。子どもの頃から母と一緒に夜行バスに乗って地元の山口から兵庫県宝塚市まで宝塚観劇へ出かけ、家では舞台のビデオを観て育った香綾さんだが、のめり込むほどの宝塚ファンではなかった。
母に「一回だけで良いから」と頼み込まれ、宝塚音楽学校を受験した。結果は、見事一発合格。まさか受かると思っていなかった彼女の喜びは、他の合格者とはまるで違っていた。
「これで春休みの宿題をやらなくていい! やった~~~!!」
勉強から解放されたかわりに、厳しい上下関係と芸事のお稽古でがんじがらめの日々が始まった。その過酷さに音を上げ、毎日泣き暮らす生徒も少なくないのだが、
「音楽学校での2年間はすごく楽しかったです。あの、すべてに追い詰められてる感じが!」
ここでも人並外れた適応力を見せつけ、4番という好成績で宝塚歌劇団に入団、初舞台を経て雪組に配属された。
卒業した今だからこそ語ることができる本音がある。
「宝塚の舞台に、夢中で憧れてはいなかったんです。だから初舞台も、あんまり感動しなかった」
華やかな雰囲気に酔いしれて、感激に浸る……そんな初舞台生ならではのうっとりとした瞬間があるものだが、香綾さんはその遥か先を、シビアな眼で見据えていた。
「宝塚に入ったからには、自分のやるべきことをやる。与えられた役はとことん追求するし、芸事の技術を少しでも上げたかった」
実際、香綾さんは実に堂々とした下級生だった。初々しさなど微塵もなく、きりっと張り詰めた表情の下級生たちの中で、とにかくよく笑う。「態度が大きい!」と叱られても、舞台に立てばどんなに端っこでも活躍して上級生を黙らせた。ベテランでも冷や汗をかくほど緊張感のある場面も、香綾さんはひょうひょうとやり遂げてみせた。
2008年「君を愛してる -Je t’aime-」の新人公演では、余裕綽々といった顔でソロを歌い上げた。ぴりぴりとした空気感のお稽古場でさえ楽しそうな香綾さんに、スターさんだけではなく周囲の私たちも驚いてしまった。
「私、全く緊張しないの。いつも楽しくてしょうがない。みんな、見てくれ~!って」
その舞台度胸と実力で様々な役をこなしていき、2009年には新人公演主演の座を掴む。男役6年目、演目は「ZORRO 仮面のメサイア」。
新人公演の主役は、誰しもが憧れる輝かしい立場だ。名実ともにスターとして認められるための条件のひとつでもある。
元々「主役をやりたい」という強い願望を持っていなかった香綾さんは、そのチャンスが巡ってきた時も冷静だった。
「私の場合、キラキラとしたスター性ではなく、努力の結果で選ばれたと思いました。だからこそ、与えられたからにはしっかりやろう、と」
他人のあり方にとらわれず、淡々とやるべきことを重ねてきた香綾さん。2期上の私から見ていても、彼女は新人公演の主演という立場に舞い上がってはいなかったし、本番では天性の芝居のセンスと努力の結果が発揮された。
だが新人公演主演を見事に果たしたこの時、彼女の心の中には、誰も想像し得ない思いが生まれていた。
「私、真ん中は向いてない―そう思いました」
誰よりも豪華な衣装で眩しいライトを浴びることは、香綾さんにとって重要ではなかった。
(続きは書籍でお楽しみください)
早花まこ(さはな・まこ)
元宝塚歌劇団娘役。2002年に入団し、2020年の退団まで雪組に所属した。劇団の機関誌「歌劇」のコーナー執筆を8年にわたって務め、鋭くも愛のある観察眼と豊かな文章表現でファンの人気を集めた。『すみれの花、また咲く頃―タカラジェンヌのセカンドキャリア―』は初めての著作。
香綾しずる(かりょう・しずる)
山口県周南市出身で、愛称は「がおり」。2002年に宝塚音楽学校に入学し、第90期生として2004年に雪組公演「スサノオ」「タカラヅカ・グローリー!」で初舞台を踏んだ。2017年7月23日、「幕末太陽傳/Dramatic “S”!」東京公演千秋楽をもって、宝塚歌劇団を退団。退団後は一般社団法人・日本アジア青年交流協会に勤務。
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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。
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