どう考えても絶体絶命だ――伊坂マジックの新境地! 伊坂幸太郎『クジラアタマの王様』試し読み

試し読み

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記憶の片隅に残る、しかし、覚えていない「夢」。自分は何かと戦っている?

製菓会社の広報部署で働く岸は、商品への異物混入問い合わせを先輩から引き継いだことを皮切りに様々なトラブルに見舞われる。悪意、非難、罵倒。感情をぶつけられ、疲れ果てる岸だったが、とある議員の登場で状況が変わる。そこには思いもよらぬ「繋がり」があり……。

2019年に発表され、その後「予言の書か?」とネットで話題を呼んだ『クジラアタマの王様』。本書の冒頭部分を公開いたします。

 ***

 テレビに映る鳥に視線が引き寄せられた。漫画から現れたかのような、頭でっかちの外見で、嘴(くちばし)がやけに大きい。横を向き、じっとしている。動物園で撮影された映像らしく、リポーターらしき女性が、「ハシビロコウはほとんど動きません」と話している。「英語名は、shoebillで、靴のような嘴という意味です」

 確かに革靴みたいな口だ。しかも、でかい。頭の大半が嘴じゃないか。

「不思議な顔をしているよね」ソファーに座った妻が、腹を撫でながら言う。三ヵ月後には自分たちの子供が誕生してくるだなんて、頭では理解していても実感がない。

「笑ってるみたいだ」画面に映るハシビロコウの大きな嘴は、横から見ると口角が上がっているようで、常に、うっすらと笑みを浮かべ余裕の表情、といった趣すらあった。「大物の感じが」

 裏のボスのような。

「今度、新商品で出してみたら?」妻がテレビを指差した。

「新商品? これの?」

「ハシビロコウスナック、とか。嘴の部分がチョコなの」

「ハシビロコウを食べるなんて可哀想、と怒る人がいそうで怖い」

「コアラはいいのに?」

「そのあたりの判断はみんな、意外に論理的じゃないから」

「実感こもってる」妻が笑った。「広報部って、苦情受付も担当しているんだっけ」

「お客様サポートは宣伝広報局の中にあるし、僕も去年まではそこの一員として、貴重なご意見を受けて、日々、勉強させてもらいましたから」

 ニュースや話題になるのは、物事の実際の重要性や危険性よりも、多くの人たちの感情が優先される。不快なものは不快、理屈を飛び越える。その気持ちは僕も分からないでもない。あの動物は狩って食べてもいいが、この動物を獲るなんて残酷! といったことはよくあるし、有名人の不倫でも、大目に見られる人もいれば、世の秩序を乱す大悪党さながらに糾弾される人もいる。重要な外交問題そっちのけで、変わった飛び方をするムササビがテレビで話題になる。情報操作や誘導にかかわらず多くの人は、感情に正直なだけなのだ。

 味が変わった、分量が少ない、といった不満ならまだしも、パッケージの色が嫌い、商品名が昔の恋人の綽名と似ていてつらい、美味しいがために食べ過ぎて太った、どうしてくれるんですか? これから食べるんですけどどんな味なんですかね? と電話で訊ねてきた人もとても真面目な口調だった。

「異動になって良かったねえ」

「同じ宣伝広報局の中だから、いつ戻されるか」

「あらら」

「自慢じゃないけれど、僕のお客様対応力は評価されていたんだから」

 妻は冗談だと受け止めたようだったが、嘘ではなかった。

 岸君は本当に貴重な戦力だから、ずっといてほしかったなあ。とは、異動が決まった際に牧場課長が言ってくれたことだ。照れ臭さもあって僕が、「戦力という言い方がすでに、お客様と戦う気満々に聞こえちゃいますよ」と言うと、「そういう受け答えができるのがね、素晴らしいんだよ。ただまあ、ずっとここでお客様対応してもらっているわけにもいかないからね。もちろん戻ってきたくなったらいつでも言ってよ」と笑った。

伊坂幸太郎
1971年、千葉県生れ。1995年東北大学法学部卒業。2000年『オーデュボンの祈り』で、新潮ミステリー倶楽部賞を受賞し、デビュー。2004年『アヒルと鴨のコインロッカー』で吉川英治文学新人賞、2008年『ゴールデンスランバー』で本屋大賞と山本周五郎賞、2014年『マリアビートル』で大学読書人大賞、2017年『AX』で静岡書店大賞(小説部門)、2020年『逆ソクラテス』で柴田錬三郎賞を受賞した。他の作品に『ラッシュライフ』『重力ピエロ』『砂漠』『ジャイロスコープ』『ホワイトラビット』『火星に住むつもりかい?』『キャプテンサンダーボルト』(阿部和重との合作)などがある。

新潮社
2023年7月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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