伊坂幸太郎史上、最高の読後感! 小学生達が「思い込み」や「決めつけ」を鮮やかに翻す! 伊坂幸太郎『逆ソクラテス』試し読み

試し読み

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 あれほど安斎たちと予行練習をしたのに、と思う。いや、実際、あの時はそう思う余裕すらなかったのかもしれない。鼓動の音が頭を埋め尽くしていた。

 佐久間が挙手した。クラスで最も背の高い女子で、目が大きく、端的に言って美人で、いわゆる学校で最も注目を浴びるタイプの同級生だった。父親は有名な通信会社の取締役でテレビにも時折出演し、地域の経済に貢献しており、母親のほうは教育熱心で、学校のやり方によく口出しをしてくる人物だった。さまざまな理由から、学校側も佐久間には一目置いていた。

「先生」佐久間がしっかりした声で言う。

「何だ」

「このプリント、読みにくいんです」

 どこだ、と久留米が彼女の机に近づいていく。

 予定通りだ。覚悟を決めた。あの佐久間が、リスクを顧みず、「カンニング作戦」に協力しようというのだ。僕がやらなくてどうする。

 久留米が佐久間の横に行き、長身を屈め、プリントを見つめたところで、僕は左手をそっと伸ばし、草壁の机の上に紙切れを置いた。姿勢を変えず、左腕だけを静かに動かす。大きな動作ではないものの、目立つ行為に思えてならない。

「本番で緊張しないためにはとにかく、何度も何度も事前に練習をやって、自動的に体が動くようにしておくことだよ」

 安斎のアドバイス通り、僕は一週間前から休み時間のたびに、練習をしていた。隣の草壁の席へ、そっと手を動かす練習だ。

 その甲斐があったのかもしれない。一度、体を動かしはじめれば、後は自動的に紙切れを草壁の机の上に置いていた。

 使命を果たした安堵に包まれながらも、心臓の動きはさらに強くなり、それを隠すために答案用紙にぐっと顔を近づけた。

 計画当初、僕は、「どうせ、メモを渡すんだったら、解答を紙に書く役割も、僕がやったほうがいいんじゃないかな」と提案した。算数のテストであれば、僕もある程度の点数を取る自信があったし、安斎が答えを書き込んで僕に紙を渡し、それを僕から草壁に渡す、という二段階の手順を踏むよりも、僕が答えを書き込んで草壁に渡す、というほうがスムーズに思えた。が、安斎は、「違う」と言い張った。「作業は分担したほうがいい。それに、草壁の隣の加賀よりも、隣の隣の俺のほうが気持ち的に余裕があるから、答えを書きやすい」

 安斎の読みは鋭かった。実際、テスト中に自分が紙切れに解答を書き込むことは無理だった。緊張で、その場で倒れたかもしれない。

 メモを受け取った後、左側の草壁がどのような行動を取ったのか、僕は覚えていない。ただとにかく、カンニングを実行した罪の意識と、危険を顧みず行動を起こした高揚感で、ひたすら、どきどきしていた。

続きは書籍でお楽しみください

伊坂幸太郎
1971年千葉県生まれ。東北大学法学部卒業。2000年『オーデュボンの祈り』で第5回新潮ミステリー倶楽部賞を受賞しデビュー。04年『アヒルと鴨のコインロッカー』で第25回吉川英治文学新人賞、「死神の精度」で第57回日本推理作家協会賞(短編部門)、08年『ゴールデンスランバー』で第5回本屋大賞・第21回山本周五郎賞、20年『逆ソクラテス』で第33回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『終末のフール』『仙台ぐらし』『残り全部バケーション』『ペッパーズ・ゴースト』など。

集英社
2023年7月21日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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