「警察や消防隊では無理でしょう」地下鉄サリン事件に対応した医師たちの奮闘 『沙林 偽りの王国〔上〕』試し読み

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 1995年3月20日月曜日の朝。東京の地下鉄は突然、阿鼻叫喚に包まれた。

 複数路線での同時テロ。車内では正体不明の液体が異臭を放ち、通路で地上で人々は次々と倒れた。

 地下鉄サリン事件の発生である。

 ――医師で作家の帚木蓬生氏が、オウム真理教事件をテーマに執筆した小説『沙林 偽りの王国』が上下巻で文庫化されました。

 未曽有の事件の端緒から終結まで、医師として関与した目で描き上げた類を見ないこの大作の上巻から一部抜粋し、試し読みとして紹介します。

 第三章 東京地下鉄

 三月二十日月曜日の朝、教授室にいたとき、研究員から呼ばれた。談話室に牧田助教授以下がいて、九時のニュースに見入っていた。首都の地下鉄での大惨事が報道され、まるで戦場のような光景が映し出された。驚いたことに、現場は一ヵ所ではなかった。地下鉄のいくつかの駅で、惨事はほとんど同時に起こっていた。
 日比谷線の築地、八丁堀、小伝馬町、神谷町、丸ノ内線の中野坂上、千代田線の霞ケ関の他にも、まだ駅の名が出てくる。
 駅からは次々と倒れた患者が、消防隊員などの手で運び出される。よろめきながら出てくる被害者もいる。築地駅に近い聖路加国際病院に運び込まれた患者は、廊下の長椅子(ながいす)に横たわったり、眼をハンカチでおさえながら腰かけている。どの患者も点滴を受けている。これは尋常ではない。
 現場の記者の報告では、症状は目が痛い、目の前が暗くなっていく、吐き気がして、意識が薄れていく、などだ。鼻血が出、口から泡をふき、昏倒する被害者もいるらしい。記者自身も、「漂白剤のような臭いがします。目が痛くなってきます」とマイクを前にしてしゃべる。
 地下鉄の外には通学途中の小学生たちがいて、一様にハンカチで口を覆い、遠巻きに見ていた。
「毒ガスのようです」
 牧田助教授が言った。「目の前が暗くなるというのは縮瞳のせいですよ」
「松本の事件と同じですね」
 思わず答えていた。敢えて、サリンとは口にしなかった。
「これからどうなるんでしょうか」女性研究員が声を震わせる。
「地下鉄という閉鎖空間だから、当然、二次被害者も出ます。救助隊にです。患者救出のあとは、現場の汚染除去が大変でしょう」
 そこまで答えて、毒ガスの発生場所が駅ではなく、列車内だったことに気がつく。サリンの毒ガスは、動く列車の中から各駅に放出されたのだろう。まず汚染除去をすべきなのは、その車両だ。しかも列車は一本ではなく、複数の路線に及んでいる。
「汚染除去はどこがしますか」
「警察や消防隊では無理でしょう」
 研究員たちが勝手に言う。
「いえ、警視庁も化学防護服を持っているし、消防庁にも化学班があるはずです。しかし一番頼りになるのは、陸上自衛隊の化学防護隊です。もう出動しているはずです」
 毒ガス発生の八時から、間もなく一時間超だ。消防隊ならいざしらず、一時間での現場到着は無理で、もう少し待つ必要がある。
「サリンですね、これは」今度ははっきりと口にした。

帚木蓬生
1947(昭和22)年、福岡県生れ。東京大学仏文科卒業後、TBSに勤務。2年で退職し、九州大学医学部で精神医学を学ぶ。1993年『三たびの海峡』で吉川英治文学新人賞、1995年『閉鎖病棟』で山本周五郎賞、1997年『逃亡』で柴田錬三郎賞、2010年『水神』で新田次郎大賞、2013年『日御子』で歴史時代作家クラブ賞、2018年『守教』で吉川英治文学賞と中山義秀文学賞をそれぞれ受賞。『国銅』『聖灰の暗号』『風花病棟』『天に星 地に花』『受難』『悲素』『襲来』のほか、新書、選書、児童書など多くの著作がある。

新潮社
2023年9月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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