日比谷線の八丁堀駅で、中目黒行の前から三両目に乗った乗客は、車内が異様な雰囲気になっているのに気づく。吊り革にやっとつかまり、真赤な顔をした男性が、発車したとたんにバッタリ床に倒れた。足元を見ると、畳半分くらいの水溜りがあり、シンナーのような臭いがしていた。数秒後にその乗客も目の前が暗くなり、気分が悪くなる。誰かが非常通報ボタンを押し、車内は騒然となって「人が倒れた」「電車を止めろ」と叫び声が上がった。
すぐに車内放送が「非常通報ボタンを押した方はインターフォンに出て下さい」と応じ、電車が築地駅に着くと、「具合の悪いお客さんがいるので、しばらくお待ち下さい」と放送された。その直後、「どうしたんだ。普通じゃないぞ」と、慌(あわ)てふためく声がマイクにはいり、「三人倒れているぞ」とまた叫んだ。しばらくすると再び放送で、「乗客のみなさん、危険ですからすぐに避難して下さい。毒ガスです。毒ガスが発生しました」と告げられた。
男性乗客は痛い眼を我慢して、外に飛び出す。口から泡を吹いている女性乗客は、ホームにへたり込み、別の乗客はベンチに倒れた。ホームは刺激臭で充満しているので危いと思い、誘導されるまま進んだ。全員が咳(せき)をし、誘導する駅員たちも眼が充血し、鼻水を垂らしていた。
自動改札の閉まっている扉を誰かがこじ開け、逃げるようにして外に出る。必死で階段を駆け上がった。途中で動けなくなった人たちもいて、「苦しい。眼が見えない」と呻(うめ)いていた。
出口にようやく行き着くと、もう五十人ほどがしゃがみ込んでいた。全員がハンカチで口を押さえている。紫色の顔をして、鼻と口から血を流している人、嘔吐(おうと)物で背広を汚して倒れている乗客もいた。救急車やパトカーがサイレンを鳴らして到着、男性乗客はこれで助かったかなと思った。
聖路加国際病院で応急処置を受けた男性は、インタヴューに対して以上のように語っていた。
果たして築地駅前は、戦場なみの光景になっていた。敷かれたシートの上に、二、三十人の被害者が倒れ、救急隊から手当を受け、消防隊や警官隊が見守っている。都知事の要請を受けた自衛隊は、通常の部隊と化学防護小隊を霞ケ関駅に派遣していた。
その千代田線霞ケ関駅では、同様に午前八時頃、乗客が「先頭車両に異臭を放つものがある」と通報していた。駆けつけた駅助役が、新聞紙に包まれた不審物を抱え、二〇〇メートル離れた駅事務所まで運んだところで倒れ、心肺停止の状態で病院に運ばれる。九時半頃、死亡が確認されていた。
ニュースが終わって、研究員たちは持ち場に行き、昼前に集まって来た。昼のニュースで、警視庁が残留物からサリンの副生成物を検出したと報じた。
「先生、やっぱりサリンでしたね」
助教授から顔を向けられて、頷(うなず)く。懸念されるのは、何と言っても病院での治療状況だった。
午後のニュースで、日本橋の中島病院院長が記者の質問を受けていた。症状が松本サリン事件のときと似ていると判断、救命救急センターを通じて、松本の病院に照会し、硫酸アトロピンの注射を続けているという。
「PAMはまだ使っていないのでしょうか」
牧田助教授が顔を曇らせる。「硫アトだけでは、ちょっと力不足でしょう」
暗に、その病院にファックスを送らなくてはいけないのではと、伺いをたてている表情だ。
「たぶん、もう使いはじめているはずです。病院によって違いがあるとは思いますが」
日本医師会からは、どの病院に連絡したかの報告はない。あの論文が各病院にファックスされていれば、おそらく百人力だ。少なくとも、松本の大きな病院ではPAMの必要性が周知されているはずで、都内の病院の問い合わせには即答できる。
午後遅くになって、各病院でPAMが使われているのをニュースで知った。最も早くPAM療法に踏み切ったのは、案の定、聖路加国際病院だった。九時前に救急患者が運び込まれ、もちろん硫酸アトロピンがすぐに投与され、けいれんに対してもジアゼパムが連続して使われた。PAMが使用され出したのは十一時過ぎだという。その効果の速やかさも、ニュースでは伝えられた。
「よかったです」
安堵(あんど)しながら牧田助教授以下に言う。
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