目的を達成するために、あらゆる自由を奪っていいのか…コロナ禍の「不要不急」を問い直す 國分功一郎『目的への抵抗』試し読み

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 ベストセラー『暇と退屈の倫理学』の著者・國分功一郎さんによる新書『目的への抵抗―シリーズ哲学講話―』(新潮社)が刊行されました。

 同書は國分さんが東京大学で行った講話がもとになっています。

 コロナ危機以降の世界に対して覚えた違和感、その正体に哲学者が迫った本作から一部抜粋し、試し読みとして紹介します。

目的の概念

 今日は最初に、極端なことを考えてみたいと言いました。「極端」ということで、僕は、即座には現実に結びつかないかもしれないが論理としては整合性があることを、整合性がある限り突き詰められるだけ突き詰めて考えるということを意味しています。そこで、以上の考察を極端に推し進めることを試みたいと思います。

 不要不急と名指されたものを排除するのを厭【いと】わない。必要を超え出ること、目的をはみ出るものを許さない。あらゆることを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。あらゆる行為はその目的と一致していて、そこからずれることがあってはならない。――いま僕が描き出そうとしている社会の傾向ないし論理とはこのようなものです。ここでは目的の概念が決定的に重要な役割を果たしていることが分かります。では目的とは何でしょうか。あまりにも日常的によく用いられる言葉ですから、この言葉のいったいどこに考察を加えるべきところがあるのだろうかと不思議に思われるかもしれません。しかし、このように自明と思われる言葉について掘り下げて考える手助けをしてくれるのが哲学なんですね。
 ここではハンナ・アーレントに助力を求めることにしましょう。アーレントこそは、目的の概念を徹底的に思考した哲学者の一人に他なりません。まずは彼女の哲学的主著と言うべき『人間の条件』がこの概念について述べているところを見てみましょう。

目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんなに恐るべき結果が生まれるか、私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう(アレント『人間の条件』志水速雄訳、ちくま学芸文庫、1994年、359~360ページ)。

 実に多くの考察と情報が詰め込まれた一節です。それらをできる限り敷衍【ふえん】してみましょう。一読して気づくのは、目的が手段と合わせて論じられているということです。ここまで僕はこの対【つい】については何も述べてきませんでしたが、目的の概念は確かに手段の概念と切り離せません。すると、何もかもが目的のために行われる状態とは、すべてが目的のための手段になってしまう状態として考えることができます。

目的と手段

 先の引用文において、目的と手段の関係は、目的によって手段が正当化される関係として捉えられています。さて、目的が手段を正当化するという話を耳にすると、おそらく少なからぬ人が、「必ずしもそうではない」と直感するのではないでしょうか。「そうでなければ、多くの望ましからぬ手段、たとえば暴力が正当化されてしまう」と反発するのではないでしょうか。アーレントの言葉を用いて言い換えれば、目的のために効果的であるからといって、全ての手段が許され、正当化されるわけではない、という主旨の反発です。

 実に興味深いのは、アーレントがこの引用部の直後で、このありうべき直感的反発に反論しているところです。といっても、彼女が「目的によって手段を正当化するべきだ」と主張しているわけではありません。そうではなくて、目的が立てられてしまったならば、その目的によって手段が正当化されないようにすることは無理だと述べているのです。
 アーレントによれば、「必ずしもすべての手段が許されるわけではない」などという限定条件にはほとんど意味がありません(同書、360ページ)。そんな限定条件を付けたところで、目的を立てたならば人間はその目的による手段の正当化に至るほかない。なぜならアーレントによれば、手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならないからです。

目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになるからである(同書、360ページ)。

 非常に印象的で鋭利な言葉です。目的はしばしば手段を正当化してしまうことがあるのではない。目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。アーレントはそう指摘しているわけです。何らかの強い道徳的信念をもった人物が、「どんな手段も認められるわけではない」と考えて、目的による手段の正当化を回避することは確かに起こりうるでしょう。しかし、この事態を回避するためになぜ強い道徳的信念が必要であるかと言えば、そもそも目的という概念に、手段の正当化という要素が含まれているからです。それがアーレントによる目的の概念の定義が言わんとしていることであり、この定義は事柄の本質そのものを捉える、すぐれて哲学的な定義だと言うことができます。目的の本質とは手段の正当化にある。そしてアーレントはこの本質から目を背けない。哲学者だからです。
 目的のために効果的であるならばあらゆる手段が許されるという考えを追求していくと、最後には「恐るべき結果」が訪れるとアーレントは述べていました。更に、「私たちは、おそらく、そのことに十分気がつき始めた最初の世代であろう」とも。『人間の条件』は1958年に刊行されています。第二次大戦の終結はわずか13年前。ここで改めて紹介するならば、アーレントはドイツ出身のユダヤ系の哲学者です。大戦前、ナチス・ドイツの手を逃れるためにフランスを経由してアメリカに亡命。戦後、かの地で活躍しました。『全体主義の起原』という大著でその名を知られるようになったアーレントは、まさしく全体主義との戦いを生涯の課題とした哲学者です。「恐るべき結果」や「最初の世代」といった表現は、この彼女の経験から読み解くことができます。

(略)

すべてが目的のための手段になる

 もちろん、何度でも繰り返しておかねばなりませんが、コロナ危機においては、感染の拡大を避けるために我々の様々な行動が一定期間制限されなければならなかったことは間違いないでしょう。不要不急と判断されたことを諦めねばならなかった場面があったことは間違いないでしょう。けれどもそこで実現された状態は、コロナ危機においてはじめて現代社会に現れたものだったのでしょうか。不要不急と名指された活動や行為を排除するのを厭わない傾向などとは無縁だった数年前の現代社会に、この傾向が、コロナ危機によって無理やり埋め込まれたのでしょうか。コロナ危機だから、不要不急と名指されたものが断念されているのでしょうか。
 もしかしたらコロナ危機において実現されつつある状態とは、もともと現代社会に内在していて、しかも支配的になりつつあった傾向が実現した状態ではないでしょうか。不要不急と名指された活動は、コロナ危機だから制限されただけでなく、そもそもそれを制限しようとする傾向が現代社会のなかにあったのではないでしょうか。そしてその傾向は、必要を超えたり、目的からはみ出たりすることを戒める消費社会あるいは資本の論理によってもたらされたのではないでしょうか。人が必要を超えたり、目的からはみ出たりして何らかの贅沢を手に入れようとすれば、すぐさまそれを止めようとする、そのような戦略のもとでこの論理は作動し、何としてでも人々を消費の中に留め置こうとしているのではないでしょうか。

「戦略」という言葉を使ったからと言って、別にどこかに悪者がいて人々を操作していると考えてはなりません。社会の中で作動する戦略というのは、必ずしも誰かのものでもなければ、誰かによって立案されたものでもありません。ボードリヤールによって描き出された記号消費のゲームにしても、そのようなゲームを誰かが構想したわけではないのです。社会で作動している戦略というのは、ほとんどの場合――すこし現代思想っぽい言い方をすると――非人称的です。つまり背後に主体があるわけではない。
 にもかかわらず、何らかの戦略が消費社会を貫いている。僕はかつて『暇と退屈の倫理学』では消費と浪費を区別することでそれを描き出そうとしたわけですが、今回は更に踏み込んで、目的と手段という対概念にまで話を広げようとしています。消費は間違いなくこの対概念で説明することができるでしょう。グルメブームにおいても、「世間の流行についていかなきゃいけない」とか「画像をネットにアップロードしなきゃいけない」といった目的が先行しており、お店に行って何かを食べることはその目的のための手段になってしまっている。それに対し、浪費においては食べることは手段ではない。もちろんいかなる食においても栄養摂取という目的が無になることはない。しかし、食事が栄養摂取に還元できないのは、食事がこの目的からはみ出る部分を持っているからです。このはみ出る部分を、僕は贅沢と呼んでいる。
 そして消費社会がそのような贅沢を退けようとするのは、もちろんその支出を「もったいない」と思っているからではなくて、すべてを目的と手段の中に閉じ込める消費社会の論理を徹底するためでしょう。消費行動はすべて何らかの目的のために行われなければならない。したがって、消費行動が徹底された時に現れるのは、驚くべきことに、〈いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間〉ではないでしょうか。

続きは書籍でお楽しみください

國分功一郎
1974年千葉県生まれ。早稲田大学政治経済学部を卒業後、東京大学大学院総合文化研究科修士課程に入学。博士(学術)。専攻は哲学。現在、東京大学大学院総合文化研究科教授。2017年、『中動態の世界――意志と責任の考古学』(医学書院)で、第16回小林秀雄賞を受賞。主な著書に『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)、『来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題』(幻冬舎新書)、『スピノザ 読む人の肖像』(岩波新書)など。

新潮社
2023年9月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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