「芥川賞・直木賞」の知られざるエピソード…菊池寛が新聞社に無視され“憤慨”、太宰治は“伏して懇願”の理由

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■いくつもの社会的事件を生んだ芥川賞

 以降、社会の大きな話題になるような受賞が特に芥川賞で続く。中堅作家以降の受賞が多い直木賞と異なり、「新たな才能を見いだす」という新人賞の性格を今も色濃く残しているからだろう。石原さんの受賞から20年後の1976年、村上龍さんがデビュー作「限りなく透明に近いブルー」で受賞すると、また多くの関心を集めた。村上さんは当時、武蔵野美大在学中の24歳。作品は、基地の街を舞台に麻薬や酒、パーティーに明け暮れる若者の生態を描いており、石原さんの受賞時と同様に多くの賛否を呼びながら、発売後4か月で100万部超のベストセラーとなった。

 芥川賞は平成に入ってからも、いくつもの“事件”を生んだ。それを「平成の芥川賞・直木賞」シリーズに収録された読売新聞記事から見てみよう。まずは先述の『綿矢、金原……若き作家たちの台頭』から。

 綿矢りささんが「蹴りたい背中」で、金原ひとみさんが「蛇にピアス」で史上最年少受賞となった2004年の第130回は、候補作の発表段階で大きな話題になっていた。綿矢さんは19歳、金原さんは20歳で、候補には同じく20歳の島本理生さんも入っていたからだ。候補作が発表された1月8日の夕刊社会面では、この3人の写真を載せた記事を大きく掲載し、見出しには「最年少女性 純文学にカツ!」。受賞決定翌日16日の朝刊では、綿矢さんと金原さんの受賞を一面で伝えた。

 平成の後期に入ると、芥川賞が社会の耳目を引く機会がさらに増える。その頃の記事を収録したのがシリーズ第3巻の『“事件”になった文学賞』だ。2012年の第146回の記事では、「共喰い」で受賞した田中慎弥さんが、選考委員の一人だった石原慎太郎さん(当時は東京都知事)を念頭に発した一言で始まる騒動にも触れている。

「(自分が受賞を断り)気の小さい委員が倒れたりしたら、都政が混乱しますので。都知事閣下と東京都民各位のために、もらっといてやる」

 田中さんが受賞会見で口にした挑発的な言葉がネットなどで拡散され、テレビやスポーツ紙も「芥川賞今年もくせ者」「とんでも受賞者」などと派手に報じたこともあり、「共喰い」はあっという間に20万部を突破した。

 その騒動の中、田中さんが何を思ったのかは、受賞決定から約2か月後の3月11日に山口県版に載った記事で知ることができる。

「下世話な目、興味本位の目をある程度引き受けながらでないと、作家の世界で生き残っていけない」

 選考会後の様々な記事を読んでいくと、もしかしたら、この田中さんの思いに最も共感した人物は石原さんだったのではないか、とも思えてくる。「太陽の季節」が選考会で賛否両論を受けた上で受賞し、「太陽族」という流行語まで生んだ“事件”の当事者だった石原さん。実は、田中さんが自分に向けて発した挑発的な言葉についても、こう語っていた。

「いいじゃない。皮肉っぽくて。俺はむしろ彼の作品は評価したんだけどね」(1月19日朝刊社会面)

 芥川賞を初めて“事件”にした石原さんがこの回の芥川賞をもって選考委員を退任したのは、何とも不思議な巡り合わせだった。

 2015年の第153回芥川賞は、綿矢さん、金原さんが受賞した04年の芥川賞以上に、候補作発表段階から注目を集めた回だった。人気お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹さんが「火花」でノミネートされたからだった。候補段階で本は40万部に達していたが、受賞が決まると勢いはさらに加速、1か月後の贈呈式までに、芥川賞史上1位となる239万部の大ベストセラーとなった。
 
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「平成の芥川賞・直木賞」シリーズでは、他にも話題をさらった数多くの受賞者について深く知ることができる。芥川賞であれば、京都大在学中に受けた平野啓一郎さんや、日本語以外を母語とする作家として初めて受賞した楊逸さん、受賞時の発言で一躍時の人になった西村賢太さん。直木賞であれば、初の親子受賞となった白石一文さんや、平成生まれ初の受賞者となった朝井リョウさん……。両賞の「正史」からはこぼれ落ちてしまいがちな、受賞者を祝福する地元の人々の声や、惜しくも受賞には至らなかった候補者たちの思いにも触れており、両文学賞をより楽しむことができるだろう。

村田雅幸(読売新聞東京本社編集委員)

Book Bang編集部
2024年1月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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