「芥川賞・直木賞」の知られざるエピソード…菊池寛が新聞社に無視され“憤慨”、太宰治は“伏して懇願”の理由

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 第170回芥川賞・直木賞の選考会が1月17日、東京・築地の料亭「新喜楽」で開かれ、芥川賞は九段理江さんの「東京都同情塔」、直木賞は河崎秋子さんの「ともぐい」と万城目学さんの「八月の御所グラウンド」の2作に決まった。両賞ともこれまで数多くの優れた作品を選び出しており、日本で最も著名な文学賞と言っても過言ではないだろう。ただ、その知名度に比べると、それぞれがどのような賞なのかと知る人は多くないように思える。昨年刊行された電子書籍「平成の芥川賞・直木賞」(読売新聞アーカイブ選書)シリーズの監修者で長年両賞を取材する読売新聞東京本社編集委員の村田雅幸さんに、改めて両賞の位置付けや歴史ついて寄稿してもらった。

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■もともと「無名」か「新進作家」のための賞


菊池寛と太宰治(出典:菊池寛・国立国会図書館「近代日本人の肖像」、太宰治・WikimediaCommons)

 芥川賞と直木賞は1935年、文藝春秋社の創業者でもある作家の菊池寛が創設し、以来、実質的に同社が運営してきた賞だ。創設のきっかけはその前年の34年、菊池の友人であり、『南国太平記』で流行作家となっていた直木三十五が死去したこと。直木は「文藝春秋」に数多くの寄稿をした人物でもあり、菊池は彼にちなんだ賞の創設を思い立つ。併せて、「文藝春秋」創刊号から巻頭随筆を書き、27年に自ら命を絶った盟友・芥川龍之介の名を冠した賞の創設も決める。

 発表は「文藝春秋」35年1月号。「芥川・直木賞宣言」が掲載され、「故芥川龍之介、直木三十五両氏の名を記念する為」「文運隆盛の一助に資する」といった賞創設の理由が記された。また、両賞の規定も示され、芥川賞は「無名若しくは新進作家の創作中最も優秀なるものに呈す」、直木賞は「無名若しくは新進作家の大衆文芸中最も優秀なるものに呈す」とされた。

 この規定と現在の賞のありようとを比べ、違和感を持つ人もいるかもしれない。芥川賞は今も新人賞の意味合いが強いが、直木賞は中堅・ベテランの作家が受賞することが多く、「無名若しくは新進作家」のための賞とは言い難いからだ。では、いつからそうなったのか。

 明言することは難しいが、確かなのは、第1回からしてその傾向が現れていたことだ。「鶴八鶴次郎・風流深川唄 その他」で受賞した川口松太郎は、すでに名の知れた作家だった。この件について、選考委員だった吉川英治が選評にこう記している。

「大衆文學の持つ本質が複雑である、一作を擧げて推賞に足るものを見出すことは甚だ困難である」

 その慎重さは、現代の直木賞選考においても変わらない。芥川賞が作品単体での評価となることが多いのに対し、直木賞では、そこに作家の来歴への評価が加わることがある。デビュー作で候補となった作家や、初ノミネートの作家への授賞を、選考委員たちが躊躇するケースもしばしば見られ、実際に現在の直木賞の規定では、中堅作家も対象に含まれている。

 全3巻の電子書籍「平成の芥川賞・直木賞」(読売新聞アーカイブ選書)シリーズは、平成の芥川賞、直木賞に関する読売新聞の記事を収めたものだが、例えば第2巻『綿矢、金原……若き作家たちの台頭』にも、直木賞選考委員たちの慎重さを示す記事を見つけることができる。第134回直木賞の選評に触れた原稿にはこうある。

「恒川光太郎『夜市』が江戸文芸にも通じるイマジネーションで高く評価されたが、新人のデビュー作ということで『もう一作見たい』という意見が大勢を占めた」
 

■第1回では創設者の菊池寛が「憤慨」

 今でこそ、誰もがその名を知る芥川賞と直木賞だが、当初は大きな注目を集めることはなく、菊池を落胆させたものだった。第1回の受賞作発表後に、菊池は「文藝春秋」にこんな文章を書いている。

「芥川賞、直木賞の発表には、新聞社の各位も招待して、礼を厚うして公表したのであるが、一行も書いて呉れない新聞社があったのには、憤慨した」

 もちろん、文壇では両賞の重要性は認識されていた。第1回芥川賞に落選した太宰治が、選考委員の佐藤春夫に「第二回の芥川賞は、私に下さいまするやう、伏して懇願申しあげます」という手紙を送ったほどだ。ただ、社会全体の話題になるということはなかった。

 それが大きく変わったのは、1956年の第34回芥川賞を、石原慎太郎さんが「太陽の季節」で受賞したことがきっかけだった。戦後育ちの若者の性と生、死を赤裸々に描いた同作を巡り、選考会は紛糾する。舟橋聖一が、快楽と正面から向き合っていると評価した一方、第1回から選考委員を続ける佐藤春夫は、美的節度を欠いた風俗小説だと批判。結局は中間派だった川端康成らが賛成に回り、授賞が決まった。

 石原さんは当時、一橋大在学中の23歳。長身、すらりとした美男子であり、史上初の学生受賞だったこともあって、マスコミはにわかに注目した。本が刊行され、映画化もされると、若い世代の共感と、旧世代の批判とが相半ばし、ますます話題に。この時初めて、芥川賞は“社会的事件”となった。

村田雅幸(読売新聞東京本社編集委員)

Book Bang編集部
2024年1月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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