『古事記』『日本書紀』で天孫降臨を先導しながら奇怪な死を遂げた猿田彦大神の正体に迫る 『猿田彦の怨霊 小余綾俊輔の封印講義』試し読み

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 猿田彦――その名を冠する神社を見たことや立ち寄ったことがある人も多いのではないだろうか?

 猿田彦大神は日本神話に登場する神だが、その正体は謎に満ちていて未だに明らかとなっていない。

 この謎に挑んだのが、博覧強記の民俗学者・小余綾俊輔だ。作家・高田崇史さんによる人気シリーズの主人公は、天孫降臨、奇怪な死、庚申待ち、括り猿など、錯綜する神話と伝承を紐解きながら、猿田彦の正体に迫る。

 今回は、長編歴史謎解きミステリーの『猿田彦の怨霊 小余綾俊輔の封印講義』(新潮社)から、試し読みとして冒頭の一部を公開する。

 ***

《 十月十四日(火)庚申・神吉 》

「ワトスン君、おきたおきた! 面白いことになってきたんだ。なんにもいわずに服を着て、ついて来たまえ」『アベ農園』

 日枝山王大学C棟三階、民俗学科・水野研究室。
 例によって、絶妙としか表現しようのないバランスを保って書物や書類が積み上げられている自分の机の前に、小余綾(こゆるぎ)俊輔は腰を下ろしていた。
 俊輔は、この研究室の助教授。非常に癖が強いため民俗学会でも母校でも、同じように煙たがられている水野史比古教授のもとで研究を続けている。と言っても、実は俊輔も似たもの同士。水野と同じくらいか、もしかするとそれ以上に各方面から敬遠――敬して遠ざけられている。
 しかしその実力から、次期教授は間違いないと研究室内外で言われているが、本音を吐露すればその件に関しては余り気が進まない。
 その一番大きな理由は、
“煩わしい……”
 という一言。
 水野も教授になってからは、好きな研究に割ける時間が大幅に減ってしまったと、毎日こぼしている。かなりの量の雑用――主に「会議」という名の雑用――をこなさなくてはならないからだ。
 ただでさえ学校関係の「雑用」が面倒で、俊輔はいつもその関係者から叱られ、あるいは協力を懇願され続けている。このまま教授になったり、しかも今までの態度を貫いたりでもしようものなら、それこそ今以上に厳しく「指導される」ことは目に見えている。
 更に――これがこの研究室の特異な点であり、同時に煙たがられる直接的な原因なのだが――水野も俊輔も「学問や研究に垣根は微塵も必要ない」という信条を持っていた。
 そんなことは当たり前と思うかも知れないが、こういった「学界」や「大学」では、そういった正論を口にすることすら憚られる。何人か、あるいは何点かの例外を除いて、誰もが自分の分野に他人が勝手に入り込んでくるのを本心から快くは思わない。これも当然と言えば当然で、そのために学部がいくつもに分かれており、各研究室にはそれぞれ専門の教授が在籍しているのだから、最初からそちらで学べば良いではないかというわけだ。どうしてこちらにやって来るのだと、必ず白い目で見られる。
 しかし、俊輔たちは違った。
 まさに水野がいつも口にしている言葉通り、
「『遠野物語』だけを読んでいては、決して『遠野物語』を理解することはできないよ。『源氏物語』や『平家物語』を、どれほど精密に研究したところで、それだけでは永遠にそれらの本質を理解できないようにね」
 ということだと思っている。
 全ての出来事は繋がっているのだ。
 文学・古代史・戦国史・現代史だけではなく、民俗学や伝統芸能どころか、化学・数学・物理学も、人間が作り上げ関与しているこの世の全ての事象が。我々は便宜的に、それらを分類しているだけに過ぎない。ゆえに、大局から俯瞰して眺めなくては、物事の本質が見えてこない――と考えている。
 心の中ではそう思っている学者たちもいるだろう。でも、誰もが実行しはしない。ちょっとでも行動に移そうものなら、いらぬ面倒に巻き込まれることが明白だからだ。
 だが俊輔たちは、敢えてそれを実践する。
 つまり、分野の垣根を越えて各方面に足を突っ込んで行くのだ。そのため、さまざまな軋轢が生じ、あちらこちらから白い目で見られていた。
 だが、水野も俊輔も――特に水野などは――そんな些末な事柄を気にかけることもなく日々を過ごしている。おかげで最近は周囲もある程度諦めたようで、昔ほど悪口や非難の声も聞こえてこない。この研究室を相手にしても時間の無駄ということなのだろうが、こちらにすれば、いちいち説明したり弁解したり論争したりせずに済むのでむしろ嬉しい。
 俊輔は苦笑いする。
 しかし、論争と言えば――。
 最近は、特に歴史学科がゴタゴタしているらしい。
 いつも俊輔に、ああだこうだと論争を吹っかけてくる、歴史学研究室教授の熊谷源二郎も、最近は俊輔とすれ違っても、無駄口を叩いている暇はないとばかりに無言で去って行くところを見れば、こちらが思っている以上に揉めているのだろう。
 やはりこの時節柄、天皇家問題――皇位継承問題が、大学全体にまで波及しつつあるようだ。
 当然と言えば当然。今まで見て見ぬ振りをして放置してきたツケが、一気に回ってきたのだ。
 だが例によって、ここ水野研究室は、そんな揉め事に巻き込まれることはなかった。不幸中の幸い。おかげで、こうして普段と変わらず自分たちの研究に没頭できている。今日の爽やかな秋の日のように、実にのどやかなものだ。
 そんな心地よい陽射しに包まれながら、俊輔は自分の前に届いている封書類を開封もせず、チラリと眺めただけで次々に書物の上に放り投げてゆく。もしも俊輔にとって重要な書類があったとしても、助手の波木祥子という有能な女性が、きちんと見つけて報告してくれるという、実に合理的で素晴らしいシステムが敷かれているので、何の心配もない。
 しかし今日は、その中の一通に目が留まった。
 文字ばかりの手紙類の中に、綺麗な絵が描かれている封筒が見えたからだ。改めて見直せば、まだ十月半ばだというのに、来年用の卓上カレンダーが送られてきていたらしい。気が早いものだ。
 確かにあと一ヵ月もすれば、街にはクリスマスソングが流れ始めるだろう。こんな風に毎年その時期が前倒しされて、徐々に季節感が失われていくわけだが、それも時の流れで文句をつけるつもりは毛頭ない。そう思いつつ、その封筒に目をやると、今年は「未(ひつじ)」年だから、来年はもちろん「申(さる)」年。
 他の封書同様、ポンと放り投げようとした時、芸術的とも言える筆で描かれた「申」の文字に手が止まった。
 どうして「申」をとても読めない「さる」と読み、なおかつ「猿」と置いたのか。それは「未」を「ひつじ――羊」と読むのと同じ理由で、中国から渡来した「十二支」に、庶民に馴染みの深い動物名を無理矢理当てはめていったからだが――。
 俊輔は、今まで思ってもみなかったことに、ふと引っかかる。
「申」は、言うまでもなく「電光」「稲妻」。
 つまり「神」のこと。
 念のために手元の『字統』のページをめくると、こうあった。

「(申の文字は)明らかに電光が屈折して走る形で(中略)それが天神のあらわれる姿と考えられたので」

“――申は天神で神の意”
「申」という文字だけで「神」を表していることになる。しかも「神」は「神」であり「示」は「知ろしめす」こと。
 だがその一方で、沢史生が言うように「猿」は、
「人間に次ぐ高等動物だが、わが国における歴史・民俗・伝承の中では、『人間に次ぐ』という面が、『人間より劣る』あるいは『人間以下』という面で強調され、語り継がれてきた感がある」
 そして、
「人間より三本毛が足りないので、人間になれない」
と言われてきたことも事実だ。
 では、なぜ「神」である「申」という文字に、人間より劣るとされてきた動物の「猿」を当てはめたのか?
 これに関しても、中国で当てはめていたからという説や、それを日本でアレンジしているのだという説などがある。たとえば十二支の「亥(い)」などは、中国では「豚」を意味しているが、日本では「猪」となっているし、「戌(いぬ)」も中国では「狗」だが、日本では「犬」となった。
 それと同様に「申」は、中国では「猴(こう)」だが、日本では「猿」。しかもこの場合の「猴」の意は、わが国同様に「狡賢いが礼儀を知らない」となっている。
 かの、民俗学者で博物学者の南方熊楠も『十二支考』の「猴(さる)に関する伝説」の中で、

「猴は前にもしばしば述べたごとくすこぶる手癖の悪いもので盗才が多い」

 などと書いている。
 その「猿」を、どうして「神」を表す「申」に?
 俊輔は眉根を寄せると、指で顎の先を捻った。
 いや。
 むしろ今まで、何故気にならなかったのか。
 余りに当たり前だと思っていた。
 しかし、そういった「常識」に疑問を投じるのが、この水野研究室ではなかったか。
“ひょっとすると――”
 俊輔はパソコンを立ち上げようとして、手を止める。
 都内でも有数と言われている母校の図書館に足を運んだ方が早い。もちろん図書館内でもパソコン検索は可能なので、一石二鳥。
 俊輔は――封書の確認と整理は波木祥子に任せて――立ち上がると、足早に研究室を出た。

     *

 十月半ばの連休明けの火曜日。
 加藤橙子は京都駅の改札を出ると、秋の日差し眩しい地上に降り立った。
 昨日までの雨もすっかり上がって、清々しい観光日和。おそらく清水寺や金閣寺や伏見稲荷大社などの有名な神社仏閣は、大勢の参拝者や観光客で賑わっていることだろう。
 しかし今回、橙子の目的は、それら寺社の観光ではない。
 橙子は東京の大手出版社の契約社員で、フリーの編集者。
 大学在学中に観た歌舞伎の華やかさに惹かれ、それがきっかけで能や文楽などにも興味を持つようになった。将来は、歌舞伎はもちろん、日本の伝統芸能全般にわたる評論の仕事などに就きたいという大きな夢を追って、今はひたすら勉強中の身。まだまだ道程は遠いが、めげることなく日々頑張っている。
 そして今回は、京都在住の歴史作家・三郷美波の新作に関しての打ち合わせで、京都市内までやって来た。
 三郷は出版社とも長いつき合いの人気作家なので、直接の担当は橙子の上司の編集長。しかし、さすがに編集長はそうそう東京を空けられないため、会って話をした方が早い案件に関しては、橙子が編集長の代理で京都まで足を運び、三郷と直接打ち合わせをする取り決めになっている。
 そう聞くと、何やら大変そうな仕事に思えるけれど、実際は全く逆。
 気難しい大作家先生相手となれば気が重くなってしまうが、三郷はざっくばらんな性格な上に、さまざまな日本の歴史をレクチャーしてくれるので、橙子はむしろこの機会を楽しみにしていた。
 それに、仕事をきちんと終えてしまえさえすれば、あとはフリータイム。三郷から食事に誘われることもあるし、時間の許す範囲内で京都や奈良などの気になる場所を見学したりすることもできる。
 前回――つい先月も、やはりそうだった。
 打ち合わせの日が、たまたま中秋の名月だったため、折角だから「古都の満月」でも愛でて行けば、と三郷に勧められた。
「藤原定家が、あれほどまでに月を好んだ理由が実感できるかも」
 とまで言われてしまった以上、このまま帰京する手はないと決心して、その勧めに従うことにした。
 三郷と別れた後で、さて、どこに行ってみようかと考えながら京都駅構内を歩いていると、壁に貼られていた一枚のポスターが目に飛び込んできた。そこには、吸い込まれてしまいそうなほど白く大きな満月と、それを映して優しく波打つ猿沢池。その池を取り囲む無数の灯りが、天平装束の人々や、朱塗りの春日大社の社殿と二重三重写しになっていた。
 現在、猿沢池湖畔に鎮座している春日大社の境外末社「采女(うねめ)神社」で「采女祭」という催しが開かれており、中秋の名月の今晩が最大の山場――クライマックスという案内のポスターだった。
 その画像を目にした橙子は即断し、そのまま奈良まで足を運んで、想像以上に素晴らしかった「采女祭」を鑑賞したのだけれど……。
 これがまた、大変なことになってしまった。
 この祭は、遠い昔に猿沢池へ身を投げた一人の采女を供養するための催しだったのだが、祭そのものどころか「采女」自体に関しても、不可解な疑問が次から次へと湧き出してきてしまったのである。
 その解決のため、わざわざ母校の日枝山王大学まで足を運び、先輩の歴史学研究室助手の堀越誠也、更には橙子が心酔し尊敬している、民俗学研究室助教授・小余綾俊輔までも巻き込んで、それらの謎を追うことになった。
 その結果――。
「采女祭」どころか、天智天皇、天武天皇、大友皇子が関与する、壬申の乱。果ては、聖武天皇までもが絡んでくる、日本史上の新発見をすることになったのだ。
 美しい満月の下、猿沢の池に龍頭鷁首(りゅうとうげきしゅ)の管弦船を浮かべて優雅に執り行われる「采女祭」を鑑賞したその時は、古代日本の歴史の根幹に関わるような大きな悲劇の歴史を内に秘めている祭だとは露ほども想像していなかったので、その結論には、ただただ唖然とするばかりだった――。

続きは書籍でお楽しみください

高田崇史
1958年東京生まれ。明治薬科大卒。1998年『QED 百人一首の呪』でメフィスト賞を受賞し、作家デビュー。QEDシリーズ、毒草師シリーズ、カンナシリーズなど著書多数。古代から近現代まで、該博な知識に裏付けられた歴史ミステリーを得意分野とする。近著に『卑弥呼の葬祭』、『源平の怨霊』、『采女の怨霊』、『QED 神鹿の棺』、『古事記異聞 陽昇る国、伊勢』、『江ノ島奇譚』などがある。

新潮社
2024年1月29日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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