松本人志も憧れた「島田紳助」が引退に追い込まれた理由とは? タブーになった暴力団と芸能人の繋がり

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2011 年、芸能界引退の記者会見に臨む島田紳助さん

「週刊文春」が報じたダウンタウン・松本人志のスキャンダルについて、かりに性加害が事実だとすれば、許されないことだ、というのはほとんどの人の意見が一致しているところである。

 一方で、女性を呼んでの「合コン」的なものについては意見が分かれている。

「女遊びの類じゃないのか。あとになって被害だのなんだのというのはおかしい」

 という人もいれば、

「たとえ昔はOKでも、現代の基準から見れば、女性をモノ扱いするのは許されないこと。犯罪に等しい」

 という人もいる。当然ながら文春側は後者の立場である。

 過去の行為をどこまで裁いていいのか。どの時点での基準、モラルを適用すべきなのか。法律を超えた裁きが必要なのか。

「コンプライアンス」「政治的正しさ」を求める声が強まった近年、このような問いについて考える機会は増えている。「あの頃は許されたんだよ」という説明では納得してもらえないケースが増えている、と言ってもいいだろう。

 松本にとって敬愛する先輩であり、関係が深かった島田紳助さんは、「昔なら許された」問題が理由で芸能界を去ることになった人物である。2011年、暴力団幹部との交際が問題視され、引退を表明。数多くのレギュラー番組を抱える人気タレントの突然の引退は、業界内外で大きな衝撃をもって受け止められた。

 しかし、そもそも長年、芸能界と暴力団とは切っても切れない関係にあった。そのことをある時期までは社会も受け容れていたのも事実である。

 それがタブーとなったのは、そう古い話ではない。

 もちろん、時代によって「常識」は変化するものだろう。一方で、過去の経緯をなかったことにはできない。

 暴力団と芸能界とが密接な関係にあったのには、それなりの必然性があってのことである。なぜ両者は接近したのか。それはいつまで受容され、いつから糾弾の対象となったのか。

 長年、暴力団の取材に携わってきたライター、山川光彦氏の著書『令和の山口組』をもとに見てみよう(以下は同書をもとに再構成しました。文中敬称略)。

  ***

2代目山口組・山口登組長と芸能界

 1925年、山口組の初代、山口春吉は組長の座を実子の登に譲りました。

 この登は当時興行界の花形で春吉が首をつっこんでいた浪曲や相撲の興行にも力を入れます。「吉本興業」(現存する芸能プロダクション)から請われて、その用心棒を務めたことに端を発してその興行権を握るなど、多くの人気浪曲師の興行権を次々と手中に収めていくのです。

 当時の興行界もまた、地方の興行主にヤクザの親分あがりが多かったことでわかるように、ヤクザとは切っても切れない業界でした。芸人や力士の人気に収益が大きく左右される実演興行も「水もの」で博奕的要素がつよく、地元の親分が用心棒を務めるだけにとどまらず、「手打ち」とよばれる興行の共同出資もよくみられました(現在の映画界でいう「製作委員会」に親分衆が大口出資するようなものでしょう)。

 娯楽に飢えた地元庶民のために派手な興行を打つことは、親分の「男をあげる」格好の機会でもありました。登が非凡だったのは、劇場や勧進元の用心棒を糸口にして、芸能の興行権まで手中にしていったことです。西日本一帯に「山口組興行部」の名が知れ渡ることになっていくのです。

 ですが、結果的にこの芸能興行が登の命を縮めることになります。浪曲師の映画出演をめぐり、山口県下関市のヤクザ組織と揉め事が起き、登は刺客に日本刀で斬りつけられます。奇跡的に一命を取り留めますが、2年後の1942年に41歳で死亡したと伝えられます。

 時は第二次世界大戦に突入し、日本は戦時統制が敷かれた頃で、登の死とともに山口組もいったん空白期を迎えることになります。

山川光彦
出版社勤務後、フリーランスライター。週刊誌、書籍などの執筆と編集に携わり、2022年『週刊新潮』に集中連載した「異端のマネジメント研究 山口組ナンバー2『高山清司若頭の組織運営術」が話題になった。本書が初めて著書となる。

Book Bang編集部
2024年1月25日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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