「だって私は……」東日本大震災で生き残った元教師が語った、外国人教師への深い悲しみと罪悪感 『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』試し読み

試し読み

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク


津波で流されずに残った陸前高田市の「奇跡の一本松」(画像はイメージです)

東日本大震災から13年……あの日、津波で亡くなった外国人は、東北の地でどのように生きたのか? 彼らの面影を辿り、日常のはかなさと、震災後を生きる人間の強さを描いたノンフィクション『涙にも国籍はあるのでしょうか―津波で亡くなった外国人をたどって―』(新潮社)が刊行された。

ルポライターの三浦英之さんは新聞記者として現地を訪ね歩き、「あの人の面影が、今も自分を生かしてくれている」という実感を胸に凛と生きる人々と出会った。今回は「第5章 美しいひと」の一部を公開します。

 ***

2011年3月11日。
モンゴメリーにとって、その日は米崎小学校における最後の授業の日だった。午前中に授業を終えていつものように給食を児童と一緒に食べた後、職員室に戻った。
山口は最後の授業を終えた彼に1つお願いしたいことがあった。
大好きな司馬遼太郎が1980年代、日本の行く末を憂いて小学校5・6年生の国語教科書向けに書いた作品『洪庵のたいまつ』。その一節をいつか子どもたちに英語で紹介するため、彼に英訳してもらいたかったのだ。

〈世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない〉

これなんだけれど、と山口が本を開いて差し出すと、モンゴメリーは、いいですよ、と快諾し、近くにあった紙片にサラサラと英訳を書いた。

〈There’s nothing as beautiful as dedicating one’s life for a cause.〉

なるほど、と山口は英訳された一節を見て感心した。
「日本語をここまで理解して、上手に英語に訳せる。モンティはアメリカ人であるだけでなく、もう立派な日本人でもあるんだな」
山口がお礼を述べると、彼ははにかむような微笑を残し、授業終了の報告をすべく市教育委員会へと戻っていった。
その約1時間後の午後2時46分、震度六弱の激震が陸前高田市を襲った。
米崎小学校は陸前高田の中心部に建てられている。揺れが収まった後、職員室にいた山口はすぐに児童を校庭に避難させようとしたが、停電で校内放送が使えない。教務主任や用務員にハンドマイクを持って校舎内を回ってもらい、約170人の児童をなんとか校庭へと誘導した。
しばらくすると、近隣住民が地域の避難所になっている学校に続々と集まってきた。教師たちは児童を保護者に引き渡す一方、家が海に近い沿岸部で暮らす児童については、安全を確保するため学校にとどめることにした。
午後3時10分ごろ、海沿いから避難してきた人たちから「津波が来るかもしれない」との報告が寄せられ、数分後、市の防災無線が「津波が防波堤を越えました」との警告を発した。
小学校からは海が見えない。ところが次の瞬間、高田松原の方角で、水しぶきのような白い煙がパッと舞い上がるのが見えた。
「津波が来るぞ!」
「高台に逃げろ!」
教師たちは校庭に残っている100人近くの子どもたちをせき立てるようにして、学校の裏側にあるリンゴ畑の高台へと駆け上った。
「走れ! 全速力で走るんだ!」
児童を追い立てる教師たちの横を軽トラックが猛スピードで追い抜いていく。なんとか高台に到着すると、近くの岩根会館に逃げ込んだ。周囲で家を建築中だった大工から携帯ラジオを借り、みんなで輪になってニュースに耳を傾けたが、聞こえてくるのは「仙台で多くの遺体が見つかった」「福島でも被害が出ている」という情報だけで、陸前高田のニュースはまったくと言っていいほど流れてこなかった。
迎えに来た保護者に児童を引き渡した後、残った児童約30人と教師が一緒になって岩根会館で夜を明かした。外に出てみると、南の空が真っ赤に染まっているのが見えた。宮城県気仙沼市で大きな火災が起きているようだった。
翌朝五時、山口が高台を下りて米崎小学校の様子を見に行くと、見慣れた町が変わり果てていた。学校の校舎は辛うじて無事だったが、津波で運ばれてきたヘドロや木材やトラックの荷台などが校門の約10メートル近く手前まで押し寄せていた。
それからの数日間は、まるで地獄のような日々だった。
米崎小学校では、先に校庭で保護者に引き渡していた2年生の女児が行方不明になっていた。関係者によると、自宅は無事だったが、引き取りに来た母親と妹の3人で車に乗って市中心部に向かおうとしたところ、津波に巻き込まれたようだった。
両親を失って震災孤児になった児童たちは、やがて遠い親戚に引き取られていった。その度に避難所でお別れ会を開き、「元気出せよ! 頑張るんだぞ!」と小さな背中を見送った。
「教師にとって、子どもを失うことほど、つらいことはありません」
山口は私の取材中、そこで初めて涙を流した。
「あの頃は、そんな悲しみが毎日毎日続いていました。私は学校を預かる副校長として、子どもたちの心が壊れてしまわないか、教師たちの心が壊れてしまわないか、それが心配で、夜もほとんど眠れませんでした」
山口が所属する市教育委員会では、教育長も次長も課長も津波に流されていた。そして当時、同じく市教育委員会にいたとみられるモンゴメリーもまた、行方がわからなくなっていた。
彼が遺体で見つかったのは震災発生から約3週間が過ぎた頃だった。
その知らせを受け取った時、山口は深い悲しみに襲われると同時に、自分自身の代わりに大切な若者の命が失われてしまったという罪悪感のようなものにさいなまれた。
「だって、私は……」と山口は取材中、まるで誰かに謝罪するようにつぶやいた。
「地震発生のほんの1時間前まで、彼といつものように笑いながら話をしていたわけですから……」
米崎小学校は体育館が避難所になったものの、4月には新入生を迎えてなんとか授業を再開することができた。教師たちは泣きながら教壇に立ち、「みんな本当によく頑張ったね。ここから新しい陸前高田を作っていこう」と児童を全力で励ましながら、自分自身を鼓舞してもいた。
山口はそんな教師たちの姿を見て、涙が出るほどうれしかった。教師たちが無理しているのはわかっていた。でも今、大人たちが無理をしなければ、一体誰が子どもたちを守ってあげられるだろう。
小学校に子どもたちのあどけない笑い声が響く。そんな当たり前のことがどれほど素晴らしいことなのか、山口は改めて気づかされた気がした。
そして思った。
「子どもが大好きだったモンティも、こうしてまた授業をやりたかっただろうな」
職員室に戻ると、机の上にはあの日、「後輩」が英訳してくれた紙片が残っていた。

〈There’s nothing as beautiful as dedicating one’s life for a cause.〉

「あの日、モンティから受け取った紙片はその後、日本を慰問に訪れた彼の実姉に遺品として手渡しました」
山口は取材の最後に私に告げた。
「私はそのコピーを今も大切に保管していて、時々見返しながら彼のことを思い出すんです」
山口は元教員らしく、背筋を伸ばして椅子に座り直すと、天に向かって呼びかけた。
「世のためにつくした人の一生ほど、美しいものはない──モンティ先生、これはあなたのことですよ」

以上は本編の一部です。詳細・続きは書籍にて

三浦英之
1974年、神奈川県生まれ。朝日新聞記者、ルポライター。『五色の虹 満州建国大学卒業生たちの戦後』で第13回開高健ノンフィクション賞、『日報隠蔽 南スーダンで自衛隊は何を見たのか』(布施祐仁氏との共著)で第18回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞、『牙 アフリカゾウの「密猟組織」を追って』で第25回小学館ノンフィクション大賞、『南三陸日記』で第25回平和・協同ジャーナリスト基金賞奨励賞、『帰れない村 福島県浪江町「DASH村」の10年』で2021LINEジャーナリズム賞、『太陽の子 日本がアフリカに置き去りにした秘密』で第22回新潮ドキュメント賞と第10回山本美香記念国際ジャーナリスト賞を受賞。その他、第8回城山三郎賞候補作に『白い土地 ルポ 福島「帰還困難区域」とその周辺』、第53回大宅壮一ノンフィクション賞候補作に『災害特派員』がある。現在、岩手県盛岡市在住。

新潮社
2024年3月15日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

  • シェア
  • ポスト
  • ブックマーク

株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

▼新潮社の平成ベストセラー100 https://www.shinchosha.co.jp/heisei100/