『放浪記』
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「まことに貧しき山海の珍味である」
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「朝食」です
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若い女性が新宿の木賃宿に泊り、翌朝、近くの飯屋で労働者に交って朝食を取る。値段の安い丼飯。それをうまそうに食べる。
昭和五年に発売された林芙美子の『放浪記』。ベストセラーになり無名の女性が一躍人気作家になった。
「私」は大正十一年、十九歳の時に恋人の明治大学生を追って尾道から上京。
しかし恋人に捨てられ、その後、東京でさまざまな職業を転々とした。
ある時、金がないので新宿駅南口のドヤ街の木賃宿に泊る。若い女性が一人でそんなところに泊るとは驚くが、幼ない頃から行商人の両親(父親は養父)と共に粗末な商人宿に寝泊りしてきた「私」には、安宿も苦にならない。
朝、近くの飯屋に入る。労働者が店にやってきて十銭で何か食わせてくれ、十銭玉一つしかないという。
店の十五、六の娘は注文を受けて、大きな飯丼、葱と小間切れの肉豆腐、濁った味噌汁を出す。
普通の人間が見たらわびしい朝食かもしれない。しかし、彼にはそれで十分。「その労働者はいたって朗かだった」。
「私」も同じものを注文する。「私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた」。それを見て「私」は思う。「まことに貧しき山海の珍味である」。
貧しい朝食が「私」には贅沢な食事に思える。「どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗かだと思う」。『放浪記』が評判になったのはこの貧しさのなかの明るさゆえだろう。