「まことに貧しき山海の珍味である」

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放浪記

『放浪記』

著者
林 芙美子 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784101061016
発売日
1979/10/02
価格
935円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

「まことに貧しき山海の珍味である」

[レビュアー] 川本三郎(評論家)

 書評子4人がテーマに沿った名著を紹介

 今回のテーマは「朝食」です

 ***

 若い女性が新宿の木賃宿に泊り、翌朝、近くの飯屋で労働者に交って朝食を取る。値段の安い丼飯。それをうまそうに食べる。

 昭和五年に発売された林芙美子の『放浪記』。ベストセラーになり無名の女性が一躍人気作家になった。

「私」は大正十一年、十九歳の時に恋人の明治大学生を追って尾道から上京。

 しかし恋人に捨てられ、その後、東京でさまざまな職業を転々とした。

 ある時、金がないので新宿駅南口のドヤ街の木賃宿に泊る。若い女性が一人でそんなところに泊るとは驚くが、幼ない頃から行商人の両親(父親は養父)と共に粗末な商人宿に寝泊りしてきた「私」には、安宿も苦にならない。

 朝、近くの飯屋に入る。労働者が店にやってきて十銭で何か食わせてくれ、十銭玉一つしかないという。

 店の十五、六の娘は注文を受けて、大きな飯丼、葱と小間切れの肉豆腐、濁った味噌汁を出す。

 普通の人間が見たらわびしい朝食かもしれない。しかし、彼にはそれで十分。「その労働者はいたって朗かだった」。

「私」も同じものを注文する。「私の前には、御飯にごった煮にお新香が運ばれてきた」。それを見て「私」は思う。「まことに貧しき山海の珍味である」

 貧しい朝食が「私」には贅沢な食事に思える。「どんづまりの世界は、光明と紙一重で、ほんとに朗かだと思う」。『放浪記』が評判になったのはこの貧しさのなかの明るさゆえだろう。

新潮社 週刊新潮
2024年5月16日夏端月増大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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