なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【後篇】

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なぜ「趣味」が社会学の問題となるのか――『社会にとって趣味とは何か』編著者・北田暁大氏インタビュー【後篇】

北田暁大
北田暁大氏

北田暁大+解体研[編著]『社会にとって趣味とは何か』。一見わかりにくいタイトルの本書は、いったいどんな書物なのか。北田暁大さんに訊いてみた。前篇・後篇、2回に分けてお届けする。

 ***

3◇「差異化の論理」との向かい合い方

――本書のように趣味を捉えると、従来のサブカルチャー論などとどのように違ってくるのでしょう?

北田■たとえば、『神話解体』が出される以前の80年代~90年代初頭の文化論って、ものすごく記号論的、というか、他者との差異を示す記号として趣味を捉えるという志向性が強かったと思うんです。商品や消費対象である文化的生産物の「内実」の序列ではなく、横並びの記号化された商品・生産物の、記号的な差異を示すことに強い意味がみいだされる。ファッション、モードが一番良く採りあげられていたと思いますが、たとえば上野千鶴子さんの『〈私〉探しゲーム』や内田隆三さんの『消費社会と権力』、また鷲田清一さんのファッション論などもそのなかに含めていいと思うんです。どう考えても実質的な機能(価値)を持たない生産物・商品が、他者との差異を顕示するという機能(象徴的な交換価値)を担い、「無印良品」のような記号的なあり方そのものを前面に出すブランド性を否定するブランドが出てくる。ケータイにつけられた飾りのような機能性のないガジェットが「他とは違う自分らしさ」を表現する機能においてのみ受容される。いわゆる消費社会論です。

いま考えると冗談みたいな話ですが、大手広告代理店のマーケッターたちが、本気でボードリヤールなどを研究し、それによって「実体性のない示差的な記号」としての商品や街づくりのあり方を考察したりする。nDK様式で画一化されたマンションのベランダにほんのささやかな「差異」を示すためのイルミネーションが飾られたりする。「私である」ということが内実を失い、記号の組み合わせにおいて、他者との示差によってのみ担保されるという「消費社会の神話」は、80年代~90年代初頭の消費文化を考えるときにマッチしているように感じられていました。広告は、実質的な差のない商品に記号論的な付加価値を与える装置、1983年に開園したディズニーランドなどは、記号によって世界が完結しているような世界像そのものを商品としたもの。ある意味で「ポストマルクス主義」的な産業主義の文化様式の捉え方が、記号論的世界観と結びつき、大量の消費社会論が生み出されていきました。直観的に時代の空気とそうした「差異化の論理」がフィットしていたんだと思うんですね。

また「本当の私などない。他者との記号的差異の集合体が「私」である」という『なんとなく、クリスタル』的な「戦後民主主義の主体」でも「抵抗する主体」でもない「私」の空虚さを示すうえで、消費社会論が魅力的であったことは容易に推察されます。文化的アイテムは質・価値において序列を顕示し、主体としての「私」の深みを示すのではなく、差異・象徴交換においてささやかな差異を顕示するにすぎない。それは、政治の季節を終えた70年代半ば以降からの生活実感と相性のよい考え方でした。

そうした「差異化の論理」が社会に実装されている、という前提で、泉麻人さんの『東京23区物語』や渡辺和博さんの「〇金〇ビ」(『金魂巻』)のようなパロディ的な類型化――類型化というのはパタン化して分類するという行為です――が差し出され、「差異化の論理」が再生産されていく。そうした消費社会論的なアイデンティティゲームの流れのなかに『サブカルチャー神話解体』はあったと思うのです。いま考えると「なんのための類型化か」が不分明なんです。しかし、類型化すること自体が一定の理解可能な社会的行為として認識されていたということなんでしょうね。

で、わたしたちとしては、そうした「類型化への欲望」そのものが時代のモードの効果であり、類型化を分析の目的としてはならない、と考えるようになりました。初発はこの本のなかでは「ファッション」を担当してくれている工藤雅人さんの問題提起であったと記憶しているのですが、彼は「ファッションは差異化のための文化装置である」というバルト的なモードの論理、消費社会論的な記号による差異化そのものに疑問を抱いたわけです。それでもともと、どういうタイプのひとがどういうブランドや雑誌と適合的なのか、といったことを考察するために作られたファッションに関する設問項目を、類型化のためではなく、「ファッションは本当に消費社会論的な意味での差異化の装置たりえているのか」という問題を探り出すために使用しはじめたんです。ファッションといえばモード、モードと言えば差異化、差異化といえば消費社会という記号論的な捉え方の前提を準拠問題として設定した。この工藤さんの問題意識と、わたしが以前から漠然と感じていたファン研究におけるブルデュー理論の濫用への警戒感が接合し、「そもそもあるひとが趣味を趣味として捉えるとはどういうことか」「小説読書という行為は、教養主義的な差異化で説明されうるものなのか」「アニメやマンガにおいて差異化の論理は機能しているか」といった論点が浮上してきました。差異の示し方を類型化(差異化)するという、『神話解体』にも貫かれている前提を検証しなくてはならない。そういう感じで各自の担当分野の分析の方向性がまとまりを見せていくようになりました。

――『社会にとって趣味とは何か』では、ピエール・ブルデューの差異化・卓越化の論理に大きな焦点が当てられています。それもそうした問題意識と関連してのことでしょうか。

北田■ブルデューの『ディスタンクシオン』という著作は、趣味=ホビーの間での趣味=テイストのよさ、悪さ、という趣味間関係、ホビーのなかでのテイストの良し悪し、趣味内関係(どのようなジャンルの音楽を好むか)、という二つの契機に着目して、テイストの差異が個人の社会空間内での位置づけ(プロット)を可能にしているかを、経済的差異との関連において分析するというプロジェクトの成果です。記号論者、記号論的消費社会論とは一線を画し、そうした事柄を事例によって説明するのではなく、統計的な調査も交えて分析していく、というところに新奇性がありました。多重対応分析という統計手法を用いて、趣味(ホビー)どうしの数学的距離を算出し、さらにそこに経済的・人口学的な変数を射影し、あの有名な「文化資本/経済資本の比」と「資本総量」という二つの軸をもった生活様式空間を描き出します。その生活様式空間のなかに個人はプロットされており、共時的なテイストと経済的資本との関係性が幾何学的に表現される。こうした分析手続きを経て「テイストの差異化・卓越化」といった問題を扱ったことはブルデューの偉大な成果であり、印象論的な消費社会論や、文化資本と経済資本との関係という論点を持ち込んだ点で、「差異化」が持つ社会的性格を鮮明に描き出しました。これは大きな彼の貢献であったとは思います。

――「とは」とは? 問題点もある?

Web河出
2017年4月26日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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