私を惹きつけて離さない運命の街 西村健がドヤ街「山谷」を描く

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最果ての街

『最果ての街』

著者
西村健 [著]
出版社
角川春樹事務所
ISBN
9784758413039
発売日
2017/05/31
価格
1,760円(税込)

【西村健『最果ての街』刊行記念】私を惹きつけて離さない運命の街

[レビュアー] 西村健(小説家)

 大学を卒業して4年間、労働省(現厚生労働省)に勤めた。入省して初めての研修で、山谷に連れて行かれた。日雇い労働者に日々の仕事を紹介する、職安労働出張所の現場を見学させてもらったのだ。
 その日の仕事を紹介するのだから、早朝である。始発で南千住駅に着いた。山谷の街に初めて、足を踏み入れて驚愕した。
 道路に延々、人が寝転がっている。交差点には立ちんぼも多い。職安以外の、怪しいスジの口入屋から職を得る者もいるのだ。また今日の就労は諦めたのだろうか。道端に車座になって座り込み、チンチロリンなどをやっている男達の姿もあった。ここは本当に日本なのだろうか!? ショックは大きかった。
 労働出張所に着くと、建物の外は黒山の人だかりが出来ていた。仕事の紹介を受けようと、これだけ集まって来ているのだ。見学に来た我々だけ、脇の入り口から先に中に入れてもらった。
 建物の中には広い空間があった。ここに労働者を受け入れ、仕事を紹介するのである。普通こういうところを「寄せ場」と呼ぶことが多いがここでは「寄り場」と称している、と説明を受けた。
 時間になり、寄り場のシャッターが開けられた。地面との間に身体が入るだけの隙間が空くと、そこから這うようにして労働者が入り込んで来る。我先に、と寄り場に殺到し、被保険者手帳を投げて来る。受け取った職員は「はい、○○さんはこっち」「□□さんはあっち」と仕事を割り振っていく。あまりに衝撃的な光景に、呆然と見入るしかなかった。
 あれから早、30年。私は今も時折、山谷に通う。この街は我が国の景気を見るバロメータだ、と思うからだ。大阪に行った時は同じく労働者の街、釜ヶ崎に行くことも多い。
 ただ堅苦しい理由から、ばかりではない。山谷にはとても素敵な居酒屋があるのだ。
 ある時、角川春樹事務所の編集者をその店に誘った。労働省時代、研修で来た時の話を呑みながらしていると、彼が言った。「西村さん、せっかくなんだからこの街を舞台にした作品を書いて下さいよ」
 盲点だった。考えたこともなかった。だが確かに面白そうだな、と感じた。主人公は、そう。労働出張所の所長。彼はとある理由で必要以上に労働者に接し、街に入り込んでいる。なのにある時、労働者の一人が殺されるという事件が起こる。責任感に衝き動かされた彼は、事件の謎を追って行く……。ストーリーが次々、浮かんだ。
 ただし懸念もあった。私の知っている労働出張所は30年前のものに留まっている。あの頃はバブル経済の真っ只中で、景気もよかったから労働者も殺到していたが、長い経済低迷期を経た今はどうなのか。街を歩いていても確かに、労働者は年老いて以前のような熱気は感じられない。現状を知る必要があった。だが労働出張所も、取材を安易に受けてくれるとは限らない。
 そこで同期入省の友人に相談してみた。まずはかつての人脈を使い、取材の手掛かりにしてみようと考えたのだ。
 すると彼のテニス仲間に以前、出張所に勤務した経験のある人がいると分かった。その人に会ってみると、今の出張所長は自分の後輩ですよと教えられた。取材の趣旨を説明すると、受けてくれるかどうか分からないけど一応話してみましょうと請け合ってくれた。
 何だかトントン拍子で話が進んだ。取材の許可が出、小説の舞台にすることも認めてもらった。ただしあくまでフィクションであり、出張所名その他は架空の名前にして欲しいとのことだったが。そのくらいはお易いご用である。かくして現況の取材が叶った。
 街を見ていて感じていた通り、やはり労働者の高齢化は進んでいた。かつてはかなり危険度も高い環境だったのだが、今ではすっかり大人しくなっている、とも。しかしそれならそれで、小説化はいくらでも可能だ。要は現状をちゃんと押さえられているかどうか、なのである。
 殺された労働者は実は、福島出身だったという設定にしていた。原発事故で避難を余儀なくされ、山谷に流れて来たのだ、と。
 そこで原発事故の被害を受けた街にも取材に行った。被災地ツアーに参加した。作中に出て来るNPO法人「野馬土」と三浦広志代表理事は、実在する。小説で描いた通りの人柄で、夜は共に酒を酌み交わした。実際に被災し、復興に力を尽くしている人と話をすることで、ストーリーが更に膨らんでいった。
 本当に上手くいくのか、と懸念のあった取材も、予想したよりスムーズにコトが運んでくれた。小説の神様が私に「この街を描け」と言ってくれているように感じられた。
 こうして完成した、あまり小説では描かれなかった街が舞台の異色ミステリー。どうぞ、ご堪能ください。

角川春樹事務所 ランティエ
2017年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

角川春樹事務所

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