河合継之助を等身大に描く その文体の持つ温度とは
[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)
この一巻を読み通すに当たって、文体の持つ温度というものを考えざるを得なかった。
それは同時に作者が、主人公・河井継之助(つぎのすけ)に対する思いの表現でもあるはずだ。
巻頭では、継之助は長岡藩にあって、藩政改革を志すが、思うに任せない。そこで板倉勝静(かつきよ)の統(す)べる備中松山藩の参政(さんせい)山田方谷(ほうこく)を訪ねるが、これが生涯の師との出会いとなる。
方谷は、藩政が回らなくなったのは、民を導く立場の士(さむらい)が、損得ばかりに目を向けているからであろうと、ズバリその原因をつく。
そして、方谷の下で学んだ継之助は、長崎をはじめとする遊歴の旅に出る。隠密の細谷十太夫(ほそやじゅうだゆう)、トーマス・グラバー、エドワード・スネルらと出会い、新しい世界に目を開いた継之助は、いまの日本を顧みて、いてもたってもいられない思いにかられる。
それは焦りにも似て、継之助の身体に触れようものなら、こちらもやけどでもしそうなくらいである。
その炎が青白く揺るぎないものになってくるのは、桜田門外ノ変や、欧米列強の進出という、内憂外患を正確に見据え、世界の中の日本という視座を手に入れてからのことだろう。
ところで、継之助に関しては、戊辰戦争に際し、長岡を灰塵(かいじん)に帰せしめた、というマイナスの評価もあるが、作者は、そんな継之助を人間臭い等身大の人物として描いた、と記している。
作中には、何度か龍に関するエピソードが出てくるが、吉原で昇龍の絵を得意とする花魁の小稲(こいな)が、継之助に『経済録』の講義をしてくれたら、その代わりに絵を画く、といって「目はぬし様が入れてくんなまし」と頼むシーンは、恐らく作者会心のものだったのではあるまいか。
人と人とがまったく同じぬくもりで結ばれた名場面―私は、この作品中、この場面に流れている文体の温度が、いちばん好ましいように思われる。