言語障害、尿を引きずる…不自由な体で“カタツムリ”と揶揄された第9代将軍「徳川家重」の心震える物語【新年おすすめ本BEST5】

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  • まいまいつぶろ
  • 厳島
  • 松籟邸の隣人(一)
  • 真田の具足師
  • 迷いの谷

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縄田一男「私が選んだBEST5」新年お薦めガイド

[レビュアー] 縄田一男(文芸評論家)

 2023年度、まず第一に挙げねばならないのは『まいまいつぶろ』であろう。徳川家重は指が動かず、呂律が回らず、歩いた跡には尿を引き摺った痕跡が残るため、まいまいつぶろ=カタツムリと言われていた。この不自由な身体を持つ家重が「私は本気で、将軍を目指してもよいか」と本音を語る箇所は号泣もの。本書は類稀な、かつ、心震える人間記録の一巻であると私は断言したい。家重の苦悩と大岡忠光の忠誠、この二つが彩る飽くことなき人間の欲望を作者は見事な対比の中で描いている。手布を用意して読むべき一冊と言えよう。

『厳島』は、それまで誰も書き得なかったこの合戦の詳細を描破し、我が国の歴史文学の空白を埋めた力作である。血の雨降る、決戦の地・厳島は、人間の希望と絶望、そして祈りの縮図に他ならぬ。決して読み易い本ではない。しかしこの歯ごたえのある本をもしっかり受け取めてこその歴史小説ファンではないか。毛利元就と陶晴賢の合戦のクライマックスたる厳島の戦いは、これまで何人もの作家が作品化に取り組んできたが、様々な人間関係が複雑に入り乱れ、決定版がなかった。本書はあたかも戦場にいるかのようなリアルな感覚を抱かせ、まるで太平洋戦争をも想起させる。

『松籟邸の隣人』は稀代のストーリーテラー、宮本昌孝が放つ初めての明治ものだ。それも明治二十年代の、いわば明治の青春を謳歌する、後に総理大臣となる吉田茂が主人公。吉田茂が吉田家の別荘松籟邸に住み、謎の隣人・天人と共に怪事件を次々と解決しながら成長していく、バディものの青春ミステリーである。何しろ当時の大磯は、「政界の奥座敷」と呼ばれており、登場人物も伊藤博文、陸奥宗光、渋沢栄一と華やか。ところが全三巻を、年一巻ずつの刊行とはあまりに殺生な。

 武川佑と聞いてまず思い出すのは怪作『千里をゆけ』のラスト近く、乱世にあって辛くも今日を生き抜いた庶民が「明日も生きよう」と叫ぶシーンだ。作品が刊行されたのはコロナ禍の真っ最中で、作者はそれを二重写しにしたのである。『真田の具足師』でこれに匹敵する台詞は、真田信繁の言う「人の死なぬ具足を作ってくれよ」であろう。今回二重写しにされているのはロシアのウクライナ侵略ではなかろうか。

 物語は真田軍の強力な具足を手にした徳川が、その秘密を探るべく具足職人の与左衛門を送り込むところから始まる。乱世における職人の矜持と葛藤を余すところなく描いた新スタンダードと言える。

『迷いの谷』は、怪奇幻想文学の翻訳の泰斗・平井呈一による翻訳集成の第二弾。

 今回はM・R・ジェイムズとアルジャーノン・ブラックウッドの二作家の作品を軸とし、こうなれば怪談なのにもう怖いものなし。ブラックウッド集の方にはほんのささやかな小品もあるが、それらの一つ一つに目が行き届いており、神品の如き域にまで達している。

 この他平井呈一が書いた怪奇小説に関するエッセイ集も、自由に筆を遊ばせている感じがして、こちらも桃源郷に身を遊ばせている体がある。

 とにかく冬の炉端で、これだけまとめて怪談の名作、名エッセイが読める恰好の一巻はそうそう無い。名訳に酔いしれて頂きたい。

新潮社 週刊新潮
2024年1月4・11日新年特大号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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