『新注釈民法(15)債権(8)』を読んで

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新注釈民法 15

『新注釈民法 15』

著者
大村 敦志 [編集]/山本 敬三 [編集]/川角 由和 [著]/平田 健治 [著]/窪田 充見 [著]/藤原 正則 [著]/道垣内 弘人 [編集]
出版社
有斐閣
ISBN
9784641017511
価格
10,800円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『新注釈民法(15)債権(8)』を読んで

[レビュアー] 前田達明(京都大学名誉教授)

第1 「新注釈民法」の意義

1、1964年に刊行が始まった「注釈民法」は、文字通り“北は北海道から南は九州まで”の民法学者の英知を結集したもので、その内容は、学説判例を網羅して、当時の“民法の姿”を明らかにしたものであった(1)。さらに、民法は他の法分野とも大きな関わりがある故に、それは、単に民法のみならず、他の法分野にも大きな影響を与えた。その後、この「注釈民法」を基礎として、20年余の時を経て、さらに発展した“民法の姿”を明らかにすべく、1988年から「新版注釈民法」の刊行が始まった。
2、そして、今また、2017年、「新版注釈民法」の成果を前提として、新たに「新注釈民法」の刊行が始まった。さらに、今年(2017年)5月26日に民法の大改正が国会で成立し、その立法に参画した民法学者のほとんどが、その執筆者として名を連ねておられ、その意味で、今回のシリーズは、新民法の立法者意思を伝える貴重な資(史)料とも云える。ただ、今回の改正の影響の比較的少ない部分と云うことで、そのトップバッターとして刊行されたのが本書である。

第2 本書の意義

1、本書は、本シリーズの中でも特に意義深い書の一つである。と云うのは、「新版注釈民法」において、「不法行為」についても、1965年刊行の「注釈民法(19)」(以下、前書と云う)を基礎として、新たに執筆される予定であったが、残念ながら刊行されなかった(2)。したがって、本書は、50余年間の判例学説の発展について、特に不法行為法と云う日進月歩の目覚ましい進歩を遂げている分野について解説するものとなったのである。
2、本書を通読した読後感として、次のように云える。すなわち、各執筆者は、執筆されている分野において、これまで優れた御著書や御論文をもって、その分野の発展に大きく寄与してこられた方々である。したがって、その内容は、現在望み得る最も信頼のおけるものであり、それぞれ、各法制度の沿革と比較法にも言及され、それを基礎として、現在の日本の判例と学説の到達点を過不足なく論述しておられる。だから、この一冊を読めば、本書の守備範囲の各法制度について一目瞭然となり、正に“座右の書”と云うに相応しい。さらに、前書に倣って、「不法行為」においては、当然、「類型」毎の論述もなされ、その「類型」も前書に比して、より現代の問題意識に合わせておられ、例えば、「生活妨害(ニューサンス)」から「公害・環境侵害」、「人格権の侵害」から「名誉・プライバシー侵害等」となり、加えて、特に、近時、消費者保護の観点から脚光を浴びている「取引関係における不法行為」と云う類型が新たに設けられている。
3、さらに、特記すべきは、今回から、「要件事実」について特別の項目が設けられたことである。これまで「要件事実」は司法研修所教育の独擅場であった(3)。しかし、ロースクール教育が始まって、事態は急変した(4)。と云うのは、ロースクール教育は司法研修所教育と法学部教育を架橋するものだからである。もっとも、前述のところからも明らかなように、このテーマについては、実務家に“一日の長”があり、本書においても、練達の裁判官でいらっしゃる竹内努判事が執筆しておられる。その内容は、基本条文のみならず「抗弁」についても、水準の高い、しかも明解な解説がなされている。我々民法学者は、これを手懸りとして、要件事実、そして、これと密接な関係にある主張責任、証拠提出責任、証明負担(Beweislast)について研究を深める必要があると考える(5)。

第3 本書の幾つかの論点

1、本書は、本文だけで938頁の大著であり(6)、全ての論点について言及することは不可能であるから、書評者が関心を持った幾つかの論点について、所感を述べさせていただく。
 まず、民法第709条が独仏と同様の過失責任主義を採用したものであることには異論はない(本書264頁)。もっとも、ここに云う「過失」は“Verschuldensprinzip”の訳語(「学術用語」)であって、法文上の「過失」ではない。ところで、「過失」一元論(本書332頁)の云う「過失」はいずれであろうか。後者とすれば、法文は「過失」を「故意」や“法益侵害”とは別要件としているから妥当でないし、前者とすれば、“Verschulden”(有責性)とは一致しないので、この“ネーミング”は妥当でない。元来、「過失一元論」は民法第709条が母法とするフランス法の「フォート」(本書332頁)に、その範を求めているが、フランス民法第1382条は「他人に損害を発生させた人の全ての所為(fait)は、faute(非行=故意、過失)(山口俊夫『フランス債権法』[1986年、東京大学出版会]100頁)によってそれを生じさせた者に、その賠償の義務を負わせる」、フランス民法第1383条は「各人は、そのfait(所為)によってのみならず、そのnégligence(怠慢)またはimprudence(軽率)によって生じさせた損害に付いても責任を負う」と定めており、いずれも“法益侵害”は法律要件とはなっていない(7)。したがって、比較法的考察からも「過失一元論」は民法第709条の解釈論としては不適切である。もっとも、日本の判例のなかにも“法益侵害”を認定していないものもあると云う反論もあるが、それは例外であって、それを原則とすることは、民法第709条の「要件事実」論を崩壊させてしまうだろう(8)。他方、違法一元論は、「故意・過失」と“法益侵害”の2つの要件事実を認定し、その衝量によって違法性(不法性)を測り、責任の有無、賠償範囲、損害額を定めるものである(本書844頁)。もっとも、法文(題号)と学術用語では、前者が優先すべきであるから「違法一元論」は「不法一元論」とすべきであろう。
 なお、現行民法第709条立法時には“動的利益”保護のために、「権利侵害」を不可欠の要件としたが(前田達明『不法行為帰責論』[1978年、創文社]217頁)、第一次大戦後“一等国”となり“静的利益”にも配慮することとなって“法益侵害”も要件に加えられたのである(「大学湯事件(大判大正14・11・28民集4・670)」)。
2、(1)次に「行為論」において、前書になかった「法人自体の行為」(9)(法人の民法第709条責任論)(本書282頁)が注目される。「法人自体の行為」については、判例とは逆に学説においては、これに対して疑問も有力である。それは「法人自体の行為」が「自然人の行為」と同じ「内実」を備えているかと云う疑問である。すなわち、「自然人の行為」は「意思に基づく身体の挙動」で「行為者が身体に対する意思支配」をしているから、「行為(身体の挙動)から発した権利侵害」は「行為者の意思の所産とみ」て「行為者に帰属させられる」(客観的帰属)とする(10)。ところで、その自然人においても、例えば、一人のリーダーが銀行強盗を計画し、自分は自宅に居て、多くの手下に役割分担をして実行させたとき、その実行行為は彼の「行為」として、その「権利侵害」は彼に「帰責」される(11)。「法人の行為」も同様である。人や機械を組織化して「自動車製造行為」や「アセトアルデヒド製造行為」の主体が「法人」であり、これが民法第709条の“行為”である。
(2)「行為論」においては、今一つ、「不作為」の問題がある。従来、「法令・契約・条理・慣習」による作為義務が主張されているが、それは「形式的根拠(法源)」であって「①先行行為基準」、「②支配領域基準」と云う実質的基準を挙げるべきと主張する(本書284頁)。だが、①の「置き石事件(最判昭和62・1・22民集41・1・17)」では違法な“置石”を誘発する行為と云う“自己の先行行為”自体が責任の根拠であり、②の「落雷事故(最判平成18・3・13判タ1208・85)」では、担当教諭の横の見物人は法的責任を負わない。何故ならば、教諭だけが予め「法令・契約」上の注意義務を負うからである(12)。
3、(1)「過失」については、前書では「予見可能性」が中心で「通常人としてなすべき注意」を怠る、と云うように、「純粋な過失主義から客観的責任に近づく」とされていた(前書24頁)。本書においては「結果回避」中心の「客観的行為義務違反」への発展がフォローされている(本書329頁)。ところで、まず、この「客観的」と云うことであるが、それは2つの側面を持っている。①1つは「意思の緊張」と云った「心理状態」(内的注意)が「過失」の要件ではないと云うことである。しかし、まだ、これも排除すべきないと云う主張がある(二重構造論)(13)。判例も「漫然と」と云っている場合がある(本書330頁)。しからば「意思」を「緊張」していたが事故を起こしたとき(客観的行為義務違反はある)、免責されるのであろうか。免責されるとすれば、客観的行為義務違反と云う要件は「過失」には不要と云うことになる。判例も殆どの事件で「意思の緊張」を要件としていないと云うことは、それが、過失の不可欠の要件ではないと云うことである。②さらに、「客観的」とは、行為義務の基準が当該具体的行為者の能力を問わないと云うことである(本書343頁)。本書では「通常人」と云う用語が用いられている(本書343頁)。「通常」とは「普通であること。なみ。通例」と云う意味で(新村出編『広辞苑 第六版』[2008年、岩波書店]1854頁)、それには「規範的」(本書344頁)意味はない。さらに「一般人」と云う用語も「特別の地位・身分を有しない人。また、ある事に特に関係ない人。なみのひと。普通人」(新村出編・前掲書180頁)と解説されているから、不適切である。「平均(人)」と云う用語も数理統計的な用語(新村出編・前掲書2518頁参照)で、不適切である。さらに、「合理(人)」と云う用語の意味は「道理にかなっている」(新村出編・前掲書968頁)で、「道理」とは「①物事のそうあるべきすじみち。ことわり。②人の行うべき正しい道。道義」とされる(新村出編・前掲書1990頁)。故に、規範的性格は帯びるが、それならば、直接的に「道理人」とすべきであろう。しかし、ここで、問題となるのは、各事件類型において法が基準として要請する「人」であるから(本書344頁)、「標準人」(14)と云う用語が最も適切であろう。
(2)さらに、過失が当該行為者の能力を問題としないとすると「意思責任」とは云えなくなる(15)。
 そこで、登場するのが、「過失責任」は「信頼責任」であると云う見解であり、現在は有力化している(本書333頁、内田貴『民法Ⅱ第二版債権各論』[2007年、東京大学出版会]318頁)。もっとも、反対説(16)は、故意でも過失でも禁止・命令規範違反(違法性)をもって賠償責任を負わされる(帰責される)のであって、さらに「意思責任」とか「信頼責任」を帰責事由とするのは“屋上屋”を重ねることであると批判する。しかし、そもそも、法理論とは敗訴当事者に対する説得の論理なのである。故意責任(17)の場合と同様に、過失責任の場合には、敗訴当事者が「たしかに法には違反したが、私としては全力を尽して努力した! 法は不可能を強いるのか! しかも、そもそも、何故に法義務を負わなければならないのか。何をしようと私の自由ではないか!」と反論したとき、「被告が社会生活をするとき、他人が法に従って行為してくれることを信頼できなければ生活は成り立たない(これが義務を遵守しなければならない根拠である。窪田・後掲注(8)48頁)。しかも、他人の個々の能力をも考慮しなければならないとすれば円滑に生活は出来ない。たしかに被告には「自由」が保障されている(憲法第13条)。それと同じく他人にも「自由」が保障されている。そして、その両者の「自由」は社会生活において常に衝突する(「社会的接触」)。その衝突を法は調整しなければならない(憲法第12条、同第13条。「公共の福祉」)。その手段が「禁止・命令法規範」なのである」(18)、と説得するのである(19)。
 このように、「不法行為」においても「法律行為」においても(前田達明「意思表示とは何か」本誌652号〔2017年〕18頁)、その法律効果の「帰属原理」は「意思原理(自由)」と「信頼原理(公共の福祉)」なのである。
4、「因果関係」については、かつては「相当因果関係論(民法第416条類推適用)」が中心であったが(前書40頁)、現在は「事実的因果関係」と「保護範囲」と「金銭評価」を区別すべきである(平井宜雄『損害賠償法の理論』[1971年、東京大学出版会]135頁)と云う主張が学界においては定着したと云えよう(本書357頁)。もっとも、判例は未だに「相当因果関係論」を採用している(例えば、最判昭和49・4・25民集28・3・447、450。ただし、大隅健一郎判事の意見参照)。判例においては、「相当=保護範囲」(本来は異なるのであるが)、「金銭評価」は別の判断枠組と考えられているのであろう。

第4 結びに代えて

 本書で扱われている法分野、特に不法行為法は判例も最も多く(20)、その故に、以上に考察した少数の論点においても学説は複雑多岐な展開を示し、理論状況も「混迷」を極めている(前田・後掲注(18)『不法行為帰責論』「はしがき」1頁)。したがって、10年後、20年後とは云わずに、遅くとも5年毎に改訂版を出していただければ、実務界にも学界にも大いに寄与するものと確信する。

(1) このシリーズと有斐閣創業80周年記念出版「法律学全集」が、戦後日本の法学界と実務界に与えた影響と貢献は絶大なものであった。
(2) もっとも、「事務管理」と「不当利得」については、本文753頁と詳細を極めた、谷口知平=甲斐道太郎編集『新版注釈民法(18)債権(9)』(有斐閣)が1991年に刊行された。
(3) 民法の教科書において、「要件事実」と云う用語が登場したのは、遠藤浩ほか編『民法(7)』(有斐閣双書)(1970年、有斐閣)96頁が最初であろう。
(4) 山本敬三『民法講義ⅣのⅠ契約』(2005年、有斐閣)、同『民法講義Ⅰ総則第二版』(2011年、有斐閣)が、その最たるものである。
(5) 本誌631号(2014年)57頁、同632号(2014年)44頁、同636号(2014年)30頁、同640号(2015年)8頁、同643号(2016年)28頁、同650号(2017年)18頁に掲載の拙稿は、正に、その“手習い初め”である。
(6) しかも、「不法行為」については民法第712条から同第724条の2は、別に、大塚直編集『新注釈民法(16)債権(9)』(「不法行為(2)」)(続刊)において扱われることになっている。
(7) ちなみに、旧民法(ボアソナアド民法)財産編第370条第1項は「過失(faute)又ハ懈怠(négligenee)ニ因リテ他人ニ損害ヲ加ヘタル者ハ其賠償ヲ為ス責ニ任ス」、同第2項は「此損害ノ所為(fait)カ有意(volontaire)ニ出テタルトキハ其所為ハ民事ノ犯罪ヲ成シ無意(involontaire)ニ出テタルトキハ准犯罪ヲ成ス」と定めていた。前田達明編『史料民法典』(2004年、成文堂)982頁、Code civil de L’empire du Japon accompagné d’un exposé des motifs,t.1,texte,1891,p.148.
(8) “法益侵害”は「過失(客観的行為義務違反)」において「一元的に説明する」(窪田充見『不法行為法』[2007年、有斐閣]95頁)と云うのならば、例えば、衝突事故で無過失側の自動車が大破し運転していた夫が死亡し同乗していた妻は負傷したと云うとき、“物損に対する過失(行為義務違反)”、“生命侵害に対する過失(行為義務違反)”、“身体侵害に対する過失(行為義務違反)”の3つの「過失」が認定されるのだろうか(“大は小を兼ねる?”)。現在、全ての判例において「過失」は1つしか認定されず“法益侵害”について3つ認定されている。
(9) 民法の教科書において、このテーマに言及したのは、遠藤浩ほか編・前掲注(3)101頁が最初であろう。もっとも、判例は古くから当然のこととしていた(例えば、「大阪アルカリ事件(大判大正5・12・22民録22・1474)」)。
(10) 橋本佳幸「『法人自体の不法行為』の再検討」論ジュリ16号(2016年)50頁、57頁。本稿の結論は、事業主体は、事業上の決定や組織整備について「保証責任」を負うとするが(同59頁、60頁)、この責任の“適”条は何条であろうか。なお、優れた判例分析による「保証責任」には賛成であり、これこそ民法第709条の「過失」(信頼責任)であると考える。
(11) 直接実行行為に関与しない者でも、他人の行為を、いわば自己の手段として利用した場合である(最判昭和33・5・28刑集12・8・1718)。
(12) 勿論、これらの「形式的根拠」は「実質的基準」を基礎としているが、直接それを義務の根拠とすることは、「作為」に比して「不作為」の「自由」(憲法第13条)を、より保護しようと云う立法政策に反すると考える。
(13) 近江幸治『民法講義Ⅵ第二版』(2007年、成文堂)111頁、潮見佳男『不法行為法Ⅰ第二版』(2009年、信山社)279頁など。
(14) 「標準」とは「①判断のよりどころ。比較の基準。めあて。めじるし。②あるべきかたち。手本。規格。③いちばん普通のありかた」とある(新村出編・前掲書2396頁)。
(15) 具体的行為者は、「通常人と同水準の注意能力を備えることが通例であって、通常人を基準とする過失判断は、当該行為者の注意能力が劣後する例外的場合に限って、信頼の要素を取り込んだ擬制的な意思非難を行うにとどまる」(本書338頁)と云う主張が有力だが、具体的事件が発生したと云うことは、その時点において具体的行為者の能力が劣後していた証拠であり、具体的事件において、判例は「自動車運転者たる者」、「医師たる者」等々としている。しかも「信頼」の要素は「意思非難」ではなく「擬制」することは不可能である。
(16) 窪田・前掲注(8)43頁、48頁、潮見・前掲注(13)5頁。
(17) 故意責任が「意思責任」であると云うのは、中世神学の影響なのである(前田達明『民法学の展開』[2012年、成文堂]97頁)。すなわち、“自由意思で罪を犯したのだから地獄に堕ちるべし”。なお、民法第709条では「故意」も「過失」も共に帰責されるから「故意責任の帰責原理を特に強調する理由に乏しい」とするが(潮見・前掲注(13)5頁)、共に帰責されるが、その原理が異なると云うだけで「特に強調する」のではない。次いで、行為の客観的無価値評価は「行為の外形」のみであり、それを行為者に帰責するのに「意思」を根拠とするのは有益である(説得の論理として)。さらに「意思」の対象が多義的と批判するが、民法第709条の規定上、「故意(意思)」の対象は“法益侵害”であることは明白である(「故意」によって法益を侵害した者)。もっとも、具体的行為者が損害惹起をも認容していたとしても何ら支障はない。ところで「意思」の対象は、このように「責任を負担する」ことを対象としていないから「帰責原理」たり得ないとする主張もある(窪田・前掲注(8)43頁)。しかし、法における「意思行為」の意思が常に法的効果に向けられている必要のないことは周知のところである。例えば、他人の動産の加工者には、所有権取得の意思があろうがなかろうが、彼に所有権が帰属することがある(民法第246条)のと、“法益侵害はお前の所産であるから、その償い(賠償)をしなければならない”(民法第709条)と云うのとは同様である。このような説得の論理は、単に“お前の行為は違法だから償いをせよ”と云うだけより強固である。
(18) 「信頼責任」から「法義務」が発生するのではなく、「社会的接触」を原因として「法義務」が設定され、それによって「信頼」が発生し、それが破られることによって「信頼責任」が発生するのである(前田達明『不法行為帰責論』[1978年、創文社]185頁、同『民法Ⅵ(不法行為法)』[1986年、青林書院新社]45頁)。
(19) 表見代理における「信頼」との対比で“代理権があるかのような外形が作出された”と云う要件が必要であるが(窪田・前掲注(8)48頁)、不法行為法においては、正に“共同生活に登場したこと”(例えば、“自動車運転者として公道に出た”)が、それに該当する。それ故に客観的行為義務を負わなければならないのである。さらに不法行為制度自体は、たしかに直接的には法益自体を保護するものである(潮見・前掲注(13)5頁)。そして、それが、いわば“保険”の役割を担って、間接的に「信頼」そのものが保護されるのである。
(20) 淡路剛久ほか「これからの民法学」[座談会]ジュリ655号(1978年)112頁(前田達明)、加賀山茂『民法条文100選』(2017年、信山社)196頁。

書斎の窓
2017年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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