怪獣大戦争観戦記――『法哲学と法哲学の対話』を読んで

レビュー

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法哲学と法哲学の対話

『法哲学と法哲学の対話』

著者
安藤 馨 [著]/大屋 雄裕 [著]
出版社
有斐閣
ジャンル
社会科学/法律
ISBN
9784641125933
発売日
2017/04/19
価格
2,700円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

怪獣大戦争観戦記――『法哲学と法哲学の対話』を読んで

[レビュアー] 若松良樹(学習院大学法務研究科教授)

1 怪獣大戦争

 いつのことだったか、谷口功一さんから『法学教室』誌で 安藤さんと大屋さんの「怪獣大戦争」が連載されるという噂を聞いて、少なからず驚いた。というのも、お二人の議論はどちらも法哲学者にとってさえ難解をもって知られており、両者の論争を学修者を対象とする『法学教室』誌に連載することなど無理筋な話のように思われたからである。
 ただし、安藤対大屋という法哲学の世界における大怪獣が対決する様子を観てみたいと思うのは人情であり、私自身も2度ばかりそのような対決を企画した。すなわち、『法哲学年報2011――功利主義ルネッサンス』(有斐閣)という法哲学の学会誌と、若松良樹編『功利主義の逆襲』(2017年、ナカニシヤ出版)という論文集である。
 それらは、いわば玄人向けであり、映画にたとえるならば、ミニシアターや自主上映会でしかお目にかかれない代物である。これに対して、今回の企画は『法学教室』誌という全国規模のメジャーな映画館で上映されるというのである。果たして、全国のよい子にこのようなものを見せてよいのだろうか。
 私は勝手に、安藤さんと大屋さんは全国のよい子に向けて、わかりやすい戦いをするのだろうと思っていた。大屋さんはともかく、安藤さんにそんなことができるのかという疑念を抱きつつ。ある日、妙にうれしそうな安藤さんが、「これで私の勝利が確定します」と原稿を見せてくれた。その原稿のタイトルが「最高ですか?」であったのを見た私は確信した。間違いない、安藤さんは本気だ。
 予想通り、全国のよい子の存在を意識し、困惑気味の大屋さんを尻目に、安藤さんはいきなり全開で暴れまくっている。出遅れた大屋さんも、安藤さんの挑発に乗せられ、徐々にヒートアップしていく。その結果、本書における怪獣大戦争も大熱戦であり、素晴らしい出来栄えとなっている。

2 周到な工夫

 類似した企画を行った者として、やや嫉妬を感じながら、本書を眺めてみると、様々な仕方で周到な工夫がなされていることに気づく。6つのテーマについて、安藤さんと大屋さんが順番に提言し、それに対して相手が応答する。この工夫は怪獣大戦争の舞台を明確に設定するという読者に対する配慮であるとともに、怪獣がリングからはみ出さないようにするための配慮でもあろう。
 さらに、他のジャンルの方々からコメントを寄せてもらい、安藤さんと大屋さんがリプライをするという仕掛けで、議論が白熱していく様子が示されていてわかりやすい。ゲストによるコメントは法哲学という領域の特徴(あるいは異様さ)を立体的に描き出すための工夫でもあるように思われるし、人選も秀逸である。
 さらに米村幸太郎さんを配置した点にも工夫が見られる。本書の元となっている連載の噂をしているときに、米村さんが「私も出演します」と教えてくれた。意外に思った私が「何の役なの?」と尋ねたところ、怪獣から逃げ惑う卑小な人間の役であり、この役は怪獣の大きさ、恐ろしさを際立たせるために必要なのだ、と説明してくれた。怪獣が大暴れしてよい子たちがどん引きする事態に備えて、初学者と怪獣を媒介する役割まで用意している点で、本書の企画はきわめて周到なものであると感銘を受けた。
 今現在、法哲学が提供できる最も面白い見世物の一つである怪獣大戦争を『法学教室』誌上で上演しようとする企画担当者の知的センスと胆力(あるいは有斐閣の緩さ)とともに、この企画を実現するために払われているきめ細やかな配慮に対して、まずは敬意を表しておきたい。それでは、このような周到な工夫は功を奏しているのだろうか。このような観点から、本書を読み解くことにしよう。

3 法哲学も驚きとともに始まる

 初学者を法哲学の門の前まで連れて行くためには、魅力的なテーマを設定する必要があろう。この点に関して、本書の企画は成功している。中でも、私は安藤さんの提題に魅せられた。というのも、「それらは法学を勉強し始めたその最初期に私が躓いた――そしてなお立ち上がれず先に進めないでいる――点を言語化したもの」(安藤・281頁)であり、同じく早々に道を見失った若い頃の自分を見ているようだからである。
 安藤さんを見ていると、あらゆる岐路、あるいは普通の人からは岐路に見えないところでさえも、あえて迷子になろうとしているとしか思えないときがある。「ここで進むのは必然的ではない」と苦しみながら思索を進める安藤さんは、すべてを疑う懐疑主義者のように見えるかもしれないが、実は必然的な道を求めているだけなのであろう。
 これに対して、大屋さんは「すべての道は恣意的であり、安藤さんの言う意味での必然的な道など存在しないのだ」とクールに言い放つ。大屋さんに言わせれば、安藤さんは懐疑の使い方を間違えていることになるだろうし、安藤さんに言わせれば、すべてが恣意的であるとするならば、大屋さんの言うことも恣意的であることになるだろう。
 「哲学は驚きに始まる」と言われることがあるが、先に進むことばかりを考えがちな初学者が気づきもしなかった段差で、安藤さんは壮絶に躓いてみせる。安藤さんは、まさに哲学の始まりである驚きを示し、初学者にこの段差について考えてみることを促している。この意味において、本書は初学者を法哲学の門の前に立たせることに成功していると評することができよう。

4 空の怪獣、陸の怪獣

 本書を読み進めていくと、先に確認したような周到な工夫にもかかわらず、読者は、「あくまで法哲学という領域の内容や意義を『法学教室』誌の読者に示すという学修的配慮に立脚する」という配慮が無残にも「議論の進行に従って振り捨てられていく」(大屋・はしがきv頁)様子を目の当たりにすることになる。
 企画段階であったかもしれない約束事は打ち捨てられ、法哲学の門の内側では、怪獣同士のとんでもない大乱闘が繰り広げられることになる。コメンテーターも若干当惑しているように見えるし、頼みの綱であるはずの米村さんも、法哲学者としての血が騒ぐのか、場外乱闘に参加している。これでは、多くの初学者は門の中を覗いただけで、ほうほうの体で逃げ出すことだろう。
 この大乱闘の結果、両者の相違がはっきりと現れたことが本書の最大の成果である。安藤さんが天空から睥睨する空の怪獣であるとするならば、大屋さんはざらざらした大地で気配を消しながらも獲物を狙う陸の怪獣である。
 両者の相違を最もよく示す問題がある。「人ひとりいない冬の奥山で雪崩が生じたとしよう。その音や振動を観測できる範囲にいる人間は誰ひとりなく、崩れた雪の痕跡もやがて降り積もる雪に消えてしまう。さて、この雪崩は我々の社会に実在したのだろうか」(大屋・168頁)。
 この問いに対して、陸の怪獣は雪崩という「事態を記述しているものは誰なのだろうか」(大屋・182頁)と疑う。陸の怪獣に言わせるならば、我々は何かを見るとき、自分の視点から自由ではあり得ない。したがって、誰もいない奥山での出来事を、この大地の上に立ちながら確認することなどできないはずである。にもかかわらず、奥山の雪崩(たとえば、行為者の罪を犯す傾向性)について語っている点で、空の怪獣の「議論は私が賛成したり反対するような対象ではない」(大屋・182頁)と切り捨てる。
 空の怪獣も黙ってはいない。奥山の雪崩は、認識されていないとしても、一定の物理性質を備えている。そして、「物理的にそっくりな事例は常に道徳的にもそっくり」(安藤・247頁)であるとして、物理性質は道徳性質に対する基盤を提供していると指摘する。このことをやや専門的には、「道徳性質は(非道徳的な)自然性質に随伴する」(安藤・214頁)と言う。
 空の怪獣は、正しさという言葉が随伴性を伴うということは、立場の違いを超えて地上において受け入れられている概念的な主張であるはずだ、と指摘する。したがって、随伴性を否定する「大屋の議論はまさに大屋自身の規約主義によって失敗している」(安藤・248頁)ことになる、と火を噴く。
 陸の怪獣はひるまず、多義図形という技によって、自然性質が我々の認識に依存していることを示そうとする。つまり、同一の像を見ているはずなのに、ウサギと見ることもアヒルと見ることもできるように、「ウサギとして見る」という我々の認識、あるいは陸の怪獣の言葉を用いるならば「思い為し」(大屋・175頁)から離れた自然性質なるものが存在しているわけではないというのである。

5 終わりよければすべてよし

 以上の簡単な紹介からでも理解できるように、両者の相違は「根本的な世界把握」(米村・321頁)における相違であり、そうである以上、この論争はここでは終わらないだろう。したがって、本書においても怪獣大戦争の決着を見ることはできない。
 しかしながら、本書において周到に練られた工夫が功を奏さず、安藤さんと大屋さんとの間の収拾のつかない大乱闘に至ったということは本書の失敗を意味するものではない。哲学の教科書は往々にして魚拓を見せられているようでつまらない。哲学に興味があるのであれば、むしろ、一流の哲学者が本気で暴れる魚と格闘している姿を観る方が面白いし、哲学に親しむ早道でさえある。
 同様に、法哲学に入門するための早道は、一流の法哲学者たちが本気で戦っている様子を観て楽しみながら、いつの日か自分も参戦していくことなのかもしれない。この意味において、『法学教室』誌の読者に対して「法哲学という領域の内容と意義を示す」という本書の目的は、意図しなかったやり方においてではあるが、成功したのではないかと思われる。まさに、「終わりよければすべてよし」(大屋・298頁)である。

書斎の窓
2017年9月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

有斐閣

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