『斗南藩―「朝敵」会津藩士たちの苦難と再起』
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<東北の本棚>会津武士凄惨な維新史
[レビュアー] 河北新報
戊辰戦争に敗れ、現在の青森県下北半島、三戸、五戸地方に転封を命ぜられた会津藩。「斗南(となみ)藩」と藩名を換えて再起を図ったが、そこで待っていたのは飢餓(きが)と疫病、地元住民とのあつれきだった。凄惨(せいさん)を極めた苦難の道程に、もう一つの明治維新史を見る。
会津藩士の子として生まれ、後に陸軍大将となる柴五郎。戦争で祖母、母、姉、妹を失い、父親や兄嫁と斗南藩に移住した時は10歳だった。陸奥湾からの寒風が部屋を吹き抜ける。食べる物も布団も満足にない。ワラビの根からでんぷんを取り出して、団子にした。「塩で味付けした犬の肉まで食べた」と回想録に記す。
城下で戦った荒川類右衛門一家。三男は、腹だけ異常に膨れ、雑炊を与えても吐き出す、薬もなく日に日にやせ衰え息を引き取った。泣きじゃくる妻の姿に類右衛門は言葉もなかった。
移住したのは藩士家族1万7千人余り、半数が病人または老人だった。下北はコメがわずかしか取れない土地。地元住民からすれば会津人の移住はありがた迷惑。山菜採りや海藻採りに明け暮れる会津の人々を「会津のゲダカ」と呼んだ。ゲダカは「毛虫」のことである。
著者は郡山市在住の歴史作家。一貫して会津藩をテーマに描く。青森県に何度も足を運び、地元の人たちとの交流を深めた。五戸町にも、会津武士は幾つも足跡を残している。猛将として知られた佐川官兵衛、元新選組・斎藤一なども一時、居住している。しかし、よりどころとなった斗南藩は廃藩置県で1年半で消滅した。五戸周辺の寺院には会津人の墓地が幾つもあるが、今は大半は訪れることもない無縁仏になっている。風化が進み、どこの誰の墓か分からない。郷土史家に案内された著者、「苔(こけ)むした墓石から旧会津藩士の悲痛な声が聞こえてきて、ただ手を合わせるしかなかった」と終章で記す。会津武士の魂は、まだ癒やされていない。
中央公論新社03(5299)1730=886円。