老いてこそ生き甲斐 石原慎太郎著
[レビュアー] 小松成美(ノンフィクション作家)
◆衰えと対峙する魂の輝き
私の人生に最も影響を与えた一冊に石原慎太郎の『太陽の季節』がある。昭和三十一年出版の短編小説を十八歳の頃に読むと、主人公の道徳の対極にある破廉恥な行いの数々、その躍動に、平凡な女子高生だった私の心は揺さぶられた。
人気小説家であり、国民的スター・石原裕次郎の兄であったその人は、昭和から平成の時代に国会議員、東京都知事と政(まつりごと)に身を投じた。世の中が政治家としての彼だけを話題にするとき、私はいつもこう思っていた。石原慎太郎の類を見ない才能は、文章にこそ宿るのだ、と。本書に触れ、今まさに「才能は文章にこそ宿る」という気持ちを新たにしている。
齢(よわい)を重ね綴(つづ)られた今作は、私にとっては予言書のようにも読めるのだ。老いるとは何か。死とはどんな瞬間なのか。著者は、その事と向き合い、揺れる心を語りかけるような軟らかな文章で記していく。八十歳を越えた肉体がどのように痛み、病んで、またその魂が肉体の衰えとどのように対峙(たいじ)し、抗(あらが)い、けれど近づく死をどのように肯定するのか。読者は、著者の魂の道程を鮮やかに追体験することができる。
亡き人への思慕、自らの生と死への超然とした意志、そうした記憶を手繰り寄せながら明かされる過去は昭和という時代を呼び起こす。肝臓癌(がん)の痛みに苛(さいな)まれた弟への同情と臨終への恐れ、市ケ谷駐屯地で自決した三島由紀夫の晩年の姿、盟友・江藤淳(じゅん)の自死を回避できなかったことへの後悔、智(ち)の巨人であった渡部昇一への尊敬、老いた妻へ親愛、孫たちへの温かなまなざしなど、その回想は彼の人生の叙事詩だとも言える。
「老いるということは経験の蓄積です」「人生での経験は無差別無尽に他の人々に分かち役立てることが出来ます」と語る著者。溢(あふ)れ出す思い出と蘇(よみがえ)る感傷、大きな病に見舞われた自分への鼓舞は痛々しくもあり、そこに連なる言葉には「黄昏(たそがれ)」を感じる。けれど暗くはない。岬に立って漆黒の闇を照らす古い灯台の光りのようでもある。
(幻冬舎・1540円)
1932年生まれ。作家。著書『弟』『天才』『法華経を生きる』など多数。
◆もう1冊
黒井千次著『老いのゆくえ』(中公新書)。85歳の作家が描く老いの日常。