『さのよいよい』
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実話「住職焼身心中」と「わたし」の家の話
[レビュアー] 平松洋子(エッセイスト)
「住職夫婦が焼身心中 灯油かぶり放火 寺院全焼 母親は自力で脱出 世田谷」(1984年7月31日 毎日新聞朝刊)
見出しだけでも禍々しいのに、記事の中身はもっと陰惨な事件が東京・世田谷の住宅地で起こった。焼死体の脇に抜き身の日本刀、お不動さんの焼け跡には「家内安全」の札が残されていた―。
小説『さのよいよい』は、本物の惨事の記憶に、地元育ちの脚本家「わたし」が踏み込んでゆく。ぺろりと皮をめくると、狂気の炎が燻る因縁の土地。「わたし」の周辺にわらわらと現れる怪しげな人物たち。ノワールの匂い、ヘンな笑い、日常の歪み、あげく宙吊り。戌井昭人ならではのマジックリアリズムの小説世界は、底の抜けた面白さだ。
少年時代の夏、夜更けの盆踊り。異様な火事の記憶から逃れられないのは、じつは「わたし」の実家とお不動さんとの間に濃い縁があったからだ。そもそも母は、自分の人生がお不動さんに守られていると信じており、息子の「わたし」のオネショも護摩焚きをしてもらって治した。それどころか、八百屋をしていた祖父が愛人をつくって出奔したとき、祖母はお不動さんで祈祷してもらって女を追い出す……過去を深掘りするほど、自分たち家族はカルトに取り込まれてきたとわかってくる。
黒っぽい情念が、戌井作品ならではの骨法でのんきな笑いに昇華され、ケムに巻かれる。「夢コンサート」の舞台で金沢明子が歌う「イエロー・サブマリン音頭」。出前のうなぎ。宮本常一『忘れられた日本人』。下高井戸の中華料理店「光春園」の瓶ビールと餃子……目眩ましの万華鏡さながら。とりわけ、「まだらボケ」の祖母の存在は圧倒的だ。ボケているのか、いないのか、現実と非現実をシャッフルし、巫女か亡霊に思えてくる。
いっぽう、「わたし」は張り切って映画の脚本の仕事に取り組むのだが、トラブル続き。離婚した妻の捨て科白も胸に刺さったまま、何かが空まわりしている。
最終章「煙たかろう」は圧巻のカタルシスだ。ついに訪れた成田山での護摩焚き。一切合財めらめらと激しく炎上するさまは、なにやら祝祭的でもある。
終始、「炭坑節」が響く。
「さぞやお月さん
煙たかろう さのよいよい」
かんがえてみれば、盆踊りのトランス状態は狂気と紙一重。
「燃やしちゃうんだ。そんで自分の踊りを踊ればいいんだ」
世田谷という土地の深層。家族の血脈。「わたし」のありさま。思わず低く唸りたくなった。燃えろ、夜空を焼いてもっと燃えろ。