テレビでおなじみの“暴れん坊将軍”のイメージを覆す、新「徳川吉宗」に驚いた!

レビュー

10
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吉宗の星

『吉宗の星』

著者
谷津矢車 [著]
出版社
実業之日本社
ISBN
9784408537825
発売日
2021/05/20
価格
1,870円(税込)

書籍情報:openBD

暴れん坊じゃない、孤独な八代将軍の物語 谷津矢車『吉宗の星』

[レビュアー] 大矢博子(書評家)

江戸幕府中興の名君といわれる将軍・徳川吉宗を『蔦屋』『曽呂利』『おもちゃ絵芳藤』の谷津矢車氏が独自の視点で描く――歴史時代小説『吉宗の星』を、書評家・大矢博子さんが解説する。

 ***

 八代将軍・徳川吉宗──と言えば?

 ええっと、享保の改革、目安箱、御庭番、米将軍、白馬で海岸を駆ける暴れん坊、町人のふりをしてクライマックスで花吹雪……あれ? いや、最後のは違う人だ。というか最後のだけじゃなくて、その前のも史実じゃないよな?

 だがテレビドラマの影響おそるべし、吉宗はいつの間にか暴れん坊として国民に刷り込まれてしまった。試しにドラマを見たことのないはずの高校生の姪に「徳川吉宗、知ってる?」と聞いたら「学校で習ったよ。暴れん坊の米将軍だよね」と返ってきたほどだ。その理解で大丈夫なんだろうか。

 とまれ、私もそういうイメージを抱いたまま、谷津矢車『吉宗の星』を手に取ったわけだ。

 一読、驚いた。暴れない。この吉宗、ぜんぜん暴れん坊じゃない。その代わりにざわざわと暴れたのは私の胸だった。こんなに悲しくて、こんなに孤独な将軍の物語だったなんて、予想もしなかった。

 物語は吉宗が新之助と呼ばれていた若き日々から始まる。母の身分が低いため家中で徹底的に差別され、飼い殺しの状態で育った幼少時代。五代将軍・綱吉に目をかけてもらい何とか扶持は得たものの、寺に入れられそうになったり、はては兄の家督を脅かさぬよう念書をとられたり。新之助の支えは優しい母、師と仰ぐ鉄海和尚、そして乳兄弟でもある唯一の家臣・星野伊織だけだった。

 ここからの新之助の波乱の運命を簡単に述べるなら、まず家を継いだ兄が死んだ。父も死に、そしてついには次兄まで命を落とし、新之助に当主の座が巡ってきた。御三家である紀州徳川家の当主として江戸城にあがり、大奥の問題を解決するなど手腕を示した。同じ御三家である尾張の当主がちょうど亡くなったこともあり、ついに新之助は七代・家継の次の将軍に推挙されるまでとなった。

 出世譚である。サクセスストーリーである。持ち前の能力もさることながら、何より運とタイミングに恵まれた、ように見える。だが実はその「運とタイミング」はすべて、周到な準備と策略により人為的に作られたものだった──というのがまず前半の筋立てである。

 その準備と策略を一手に担ったのが伊織だ。つまり伊織は新之助の出世のためのダークサイドを管轄する男、なのである。邪魔者を排し、情報を集め、策を立て、敵を陥れる。中には新之助が知らないまま伊織の独断で行われることも少なくない。新之助のため、汚れ役を厭わず暗躍する謀略のプロフェッショナル。何それ萌える。

 新之助が八代将軍吉宗になるまでの数々の策略知略が前半の読みどころだ。吉宗が出世の邪魔者を排除していくという物語はこれまでもあったが、他のさまざまな歴史上の出来事を絶妙に配し、その謀略にさらに深みと凄みを与えた。ダークヒーローものの醍醐味に満ちていて実にエキサイティングなのである。

 だが、伊織は物語から途中退場する。「天下をお取りくださいませ、殿……。この星野伊織、天に瞬く星となり、見守って、おります」

 ここからの転換が見事。あまり具体的に書くと興を削ぐので控えるが、将軍として辣腕ぶりを発揮しながらも、吉宗はふと立ち止まる。なぜ自分は将軍の座にいるのか。差別されてきた母を救いたかったからだ。無二の友が望んだからだ。だがそのふたりに先立たれた今、なぜ自分はまだここにいるのか。心に空洞を抱えながら、それでも吉宗は将軍であり続ける。狙う側から狙われる側になった吉宗は、今度はひとりで敵と対峙せねばならない。そして立派な将軍であり続けねばならない。なぜなら伊織との約束だから。

 恐ろしいほどの孤独である。吉宗をこんなに哀しく描いた物語を、私は他に知らない。

 星野伊織は架空の人物だ。だが現実に吉宗が為した施策や彼が作り上げた組織を見たとき、そこには伊織のような存在が(ダークサイドだけではなく)あったのだろうと思わせる。そのように、著者はちゃんと計算している。

 これは、拠り所の物語だ。人が何かを目指すとき、何かになろうとするときに、その思いの核を描く物語だ。もちろん理想も野心も夢もあるだろう。だがそれとは別に「この人に認められたい」「この人を喜ばせたい」「この人をがっかりさせたくない」という思いがある。人を動かす力は、実はそんな極めて個人的な、些細なところにこそ潜んでいるのではないか。

 それを著者は「星」と表現した。おそらくは、読者ひとりひとりの胸にも「星」があるはずだ。この人に恥じるようなことはできない、この人に喜んでもらいたい、そう思えるようなそれぞれの「星」を、読者は本書を読みながら思い浮かべるに違いない。

 エキサイティングな謀略小説にして、人がその心の中に持つ核を描いた物語。それが『吉宗の星』なのである。

 なお、蛇足ながら最後にひとつだけ。本書には第七代尾張藩主・徳川宗春が登場する。緊縮財政を打ち出した吉宗に逆らって尾張を遊興で盛り上げ、ついには蟄居に追い込まれた藩主だ。そういった経緯からこれまで歴史小説ではふたりは敵対することが多かった。吉宗の小説の書評を名古屋人である私に依頼してくるとは、軽くケンカ売ってるのか、とすら思った。

 ところが本書ではこのふたりは敵対しない。それどころかめちゃくちゃいい関係なのである。宗春公もとびきりカッコいいのである。暴れん坊という印象を覆すのみならず、敵とされてきた関係を逆転してみせるとは。実はここにいちばん驚いた。『吉宗の星』、尾張の民にも安心して薦められるぞ!

J-enta
2021年5月18日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

実業之日本社

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