『正欲』
書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます
群像劇の旗手が多角的に描き出す想像もつかない種類の“欲望”
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
「正しさ」が吹き荒れている。だがはたして、「正しさ」を振りかざして「正しくない」ものを徹底的に叩き潰すのは「正しい」ことなのか。
本書を読むと、自分の「正しさ」がぐらぐらと揺らぐ。それも、思想信条のレベルでなく、欲望のレベルでだ。しかしたとえば、性欲ほど本能に密着した欲望に、正しいも正しくないもあるのだろうか。
ところで、正しさに向かう昨今の不寛容が極めて危険なのは、なによりそれが想像力を欠くからだ。どんな正しさも時代と場所によって変わる。本書でも小児性愛は蛇蝎の如く嫌われるが、古代ギリシャの少年愛は一種理想の愛とされた。
あるいは、そういうことは頭で理解していても、今ここに別の正しさがありうることに、われわれは大抵気づかない。『源氏物語』を世界に冠たる日本文学として掲げる一方で、芸能人の不倫をとことん叩く。いや、本書が問題にしているのはそんなことではない。むしろ、さまざまな欲望を「多様性」として認めようとする側に潜む危うさについてである。
たとえばある特定の性的マイノリティに理解を示すふるまいをしたとして、そのとき、そのカテゴリーからもこぼれる人々がいることをわれわれは見落としがちだ。ときには自身がマイノリティと呼ばれ、存在を認められるときに、さらにその陰にいる人々のことを忘れてしまう。
本書で鍵となるのは、おそらく多くの人が想像もつかない種類の欲望である。ただそれを、群像劇を描かせては右に出る者のない朝井が、複数の人物の欲望として多角的に描くときに、ようやくわれわれもリアルなものとして受け取ることができる。これが小説の想像力だ。
だがしかし、われわれはそれを「正しい」欲望と認めることができるだろうか。さらには彼らのそれをさえ上回る他者の欲望に出会ったときには……。だからここでの問題は「性」というより「正」についてなのだ。