『私労働小説 ザ・シット・ジョブ』
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底辺労働を渡り歩く女性の「あたしが決める」というリアリティ
[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)
「私労働小説」とは、労働文学にして自伝的小説のことだと帯は言う。だが、「あとがき」には、自伝ではないと断ったうえで、「どこまでが本当のことかは言わぬが花。それが「私小説」というものだとわたしは思っている」とある。
旧来の「私小説」の定義からは外れるだろうが、作家のプライバシーが守られる現代において、どこまでが本当に作者の実体験かを探ることにそれほど意味はないだろう。読者にとって重要なのは、どれほどリアリティがあるかの一点だ。
地方都市のクラブやガールズパブ、社員食堂、アパレルショップ、夜間の工場、託児所など、主人公の女性はさまざまな職場を渡り歩く。どこもきつく、その割に給料は高くない。底辺労働と言ってよいかもしれない。
ただこれは、デヴィッド・グレーバーの言う、「ブルシット・ジョブ」=〈本来なくてもよく、その無意味さに耐えることで報酬を得る仕事〉とは違う。本書の仕事のほとんどは、誰かを直接支えるものであり、決して無意味ではない。だからこそ主人公は、「あたしのシットはあたしが決める」と宣言することができるのだ。
どれほど辛く割に合わないように見える仕事でも、そこに僅かなやりがいを感じることもある。その指摘は一見、社会批判を弱めてしまうように思えるかもしれないが、この人間の複雑さにこそ小説の意味がある。
主人公は格差社会を一方的に批難する正義の味方のような薄っぺらい人間ではない。また、それぞれの職場で出会う人たちもさまざまな人生を生きている。弱者が必ずしも善ではなく、強者が必ずしも悪ではない。陰翳に富んだ彼らとのやりとりが、本書の読みどころだ。
ここに出てくる職業のどれ一つとして経験したことがなくとも、本書のもつリアリティは読者をその職場に立たせる。さらには自分の労働についても考えさせる。その意味で、これは「私」を超えた労働小説だ。