われらが否定の代弁者

レビュー

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生誕の災厄 〈新装版〉

『生誕の災厄 〈新装版〉』

著者
E. M. シオラン [著]/出口裕弘 [訳]
出版社
紀伊國屋書店出版部
ジャンル
文学/外国文学、その他
ISBN
9784314011815
発売日
2021/05/28
価格
2,750円(税込)

書籍情報:openBD

シオラン――われらが否定の代弁者

[レビュアー] 大谷崇(ルーマニア思想史研究者)

人と会いたくても気軽に会えない時期が一年以上続いている。読者の多くもさぞうんざりしていることだろう。しかし、このような状況で言うのはちょっと気が引けるのだが、個人的には、人と会えなくなってかなり楽になったというのが正直なところである。会いたくもない人と会うのを断る口実を探すのが、こんなに簡単になったことがあるだろうか。

こんなことを言うとお叱りを受けるかもしれない。人と会いたいのに会えない人が多いことは、とても気の毒に思うし、他人との交際が好きな人にとっては、今の状況は地獄に等しいかもしれない。何より、期間が長すぎる。少しの間なら楽しめたかもしれないが、もうたくさんだと。なるほどそうかもしれない。しかし考えてもらいたいが、このパンデミック以前は、人間嫌いにとってずっと地獄だったのである。それを思えば、少しくらい大目に見てもらってもよいのではないだろうか。

人と会いたくないというのは、なかなか言いにくい。他人に面と向かっては言えないから、自然と自分の心のなかに閉まっておくことになる。しかしこの、誰もがとは言わないが、もしかするとそれなりに多くの人が思っていることを、シオランはあからさまに言ってくれる。

〈独りでいることが、こよなく楽しいので、ちょっとした会合の約束も、私には磔刑にひとしい〉(『告白と呪詛』)

さすがに磔にされるのと同じくらい嫌ではないが、人に会いたくない、独りでいたい、と思ったことのある人はいるだろう。それをシオランに言ってしまわれると、ああわかる、という気持ちがするとともに、それが自分のものではなくなる気がする。そこで私とそのネガティブな気持ちとの間に距離が生まれる。私に代わって、もっと過激に言ってくれる人がいるのだから、私が言わなくてもいいな、と思う。シオランを読むと解放される感じがするという人が多いのは、このためだろう。シオランほど率直に、生への呪詛を吐いた人はいないから、その機会には事欠かない。人生や社会に対してネガティブな感情を抱いたら、シオランをひもといてみるのがいい。だいたいすでに言ってくれている。

例を挙げてみよう。1973年に書かれた『生誕の災厄』という本がある。断章で構成されたアフォリズム集だ。断章の醍醐味は、中間部分を省いて、結論だけを提示するところにある。たとえば、本書をめくっていると、次のような文章にぶつかる。

〈一冊の本は、延期された自殺だ〉

〈生誕と鉄鎖とは同義語である。この世に出てくるとは、手錠をかけられることだ〉

このような断言が私たちに突きつけられる。論証が付いていないから、私たちはシオランがなぜそのように考えているのか、どういう道筋を経てその結論に至ったのかわからない。それにもかかわらず、一読しただけで「わかってしまう」こと、まったくそのとおりだ、と思うことがある。このような感覚はシオランの読者に珍しくないのではないかと思う。そのとき、シオランの文章を通じて、私たちの経験と思考は、彼のものと異なりながらも重なっていく。

〈人は動機なしに生きることができない。ところで私は動機を持っていない。そして生きている〉

もちろん、わかったと思うとき、私たちはシオランと同じ経路でその結論に達しているとは限らない。論証が不足しているがゆえに、アフォリズムが提示する真理は不安定で、どこまでいっても謎めいている。加えて、彼のすべての文章を理解できるわけではない。私たちは当惑し、路頭に迷うとともに、解読を試みる。その過程で私たちの思考も変化していき、私たちの経験にも違った観点から光が当てられる。電撃的に生じる理解と解放の感覚、そして理解不能に直面して、曲がりくねりながら進む探求の道。シオランを読む魅力はこの辺りにあるのだろう。

シオランはペシミスト(悲観主義者)だ。ペシミストとは、人生や世界は苦に満ちているという考えに立つ者のことだ。仏教が教えるような生老病死はもちろん、人間社会における無数の対立も苦のうちに数えられる。
ペシミストの本を読む利点は、私たちを幸福の強迫観念から解放してくれることにある。不幸にも利点はあるのだと。ペシミストは一般に、真理と幸福は相容れないと考える。真理とは人間にとって不都合なもので、苦しむこと、病むこと、不幸になることではじめて真理を知ることができる。〈私たちの選択に委ねられているのは、息苦しいさまざまの真理か、有益なさまざまのペテンか、このいずれかにすぎない。私たちに生きることを許さぬ真理だけが真理の名に値する〉(『四つ裂きの刑』)というシオランの言葉は、彼のペシミストとしての立場を要約している。

1933年に書かれた『絶望のきわみで』は、若きシオランが不眠の絶頂期において、死、病、そして絶望等について、絶叫せんばかりに語ったデビュー作だが、後年のシオランとはまた違った流儀でペシミズムが表明されている。そのなかでも特徴的なのは、病気や苦しみといった主題が繰り返されていることだ。以下では、『絶望のきわみで』とともに『涙と聖者』『思想の黄昏』を取り上げ、若きシオランの立脚点を見てみたい。

この三作品は、どれもルーマニア語で書かれた作品だ。シオランは1911年にトランシルヴァニア地方に生まれたルーマニア人で、37年パリに留学し、44年以降は祖国に帰らずにパリで一生を送った作家・思想家だ。それゆえ、ルーマニア語のシオランとフランス語のシオランがいることになる。両者は一人の人物でありながら違った相貌を見せ、それぞれ独自の魅力を持っている。両者を読み比べるのもシオランの読者の楽しみの一つと言える。

『絶望のきわみで』の特徴は、とても抽象的でありながら、肉体的苦しみという、具体的な基盤を持っていることだ。病に苛まれる身体と意識の過剰に苦しむ魂を出発点として、それらが衰弱し、陶酔し、幻滅し、絶望と死の恐怖を経験する旅路を追ったのがこの作品である。若きシオランは人を苦しむ者と苦しまない者に分ける。前者の、病気に苦しむ不幸な人間は、この世において苦しむことを運命づけられている。
〈私が存在するという事実は、世界には意味がないことの証明である〉と述べるシオランが、前者の部類に入ることはもちろんだ。若きシオランが強調するのは、このような苦しむ病気の人間こそが、現世におけるある種の真理を掴むことができ、真正の経験を得ることができる、すなわちもっとも「よく生きる」ことができる、ということだ。本当に生きるためには、生の反対物である病気、苦悩、衰弱を通り、絶望と恐怖を死に至るまでに経験しなければならない。ここには、フランス時代のシオランにはない――あるいは彼が克服した――熱狂がある。同時に、病気や苦しみといったペシミスティックな主題は、後年も変わらずに、彼にとって切実で重要な問題となっている。

1937年刊行の『涙と聖者』は、シオランのキリスト教の聖人への関心が頂点に達したアフォリズム集だ。どうして彼は聖者に興味を抱いたのだろうか。それは聖者が病んでいるからだ。聖者は地上的なものを徹底的に蔑視し、禁欲で自らの肉体を苛む。ある聖女は衰弱のあまり起き上がることができず、またある聖女は睡眠を削り、毎晩二時間以上眠らず、眠気をおぼえ頭が動いたときに自分を罰するために釘の冠を被ったという。
このような常軌を逸した苦行はすべて神への愛のためだ。病と衰弱と苦悩からなるエクスタシー=神秘体験を通して神へ、天空へ、〈絶対〉へと至る、聖者はそのような道を示していると彼には思えたのである。

重要なのは、このような関心も、人間であることをやめたいというシオランの熱望から来ていることだ。聖者であること、それは自らの外に絶えず出ていることだとシオランは述べる。彼にとって聖者は、個人という牢獄から解放され、人間であることをやめるための模範――ただし真似しがたい模範であったと言える。
真似しがたいというのは、この聖者への関心は、フランス時代になると薄れていくからだ。1949年フランスでのデビュー作『崩壊概論』では、聖者たちへの幻滅が語られ、それは「聖者から犬儒派(けんじゅは)へ」と定式化される。犬儒(キュニコス)派とは、社会の慣習を軽蔑し自然に従った生を理想とする古代ギリシャの学派だ。それではシオランは〈絶対〉への郷愁を捨てたのだろうかと問えば、そうとも言えないことは、後のフランス語著作が示している。

1940年刊行のアフォリズム集『思想の黄昏』で際立つのは〈廃墟〉という語だが、この言葉はこの作品全体を表すものとしてふさわしい。『絶望のきわみで』ほど生真面目でもなく、『涙と聖者』の天空への憧憬も揺らいだ今、地上の荒廃のなかで、彼は憂鬱や倦怠を抒情的にむさぼろうとする。この頽廃への愛は、必ずしも彼が望んだ当のものではないがゆえに、ますますねじくれて、その分興味深いものとなっている。

以上のルーマニア時代の作品の特徴は情熱的であることだが、フランス時代のシオランはそれから距離をとる。『崩壊概論』においては、まだ情熱的に情熱を告発するところがある。ただ、作品の数が増えるにつれ抑えられ、そして年を取るにしたがって明晰になり、『生誕の災厄』にもみられるとおり仏教をはじめとする「知恵」の伝統への傾倒が際立つようになり、文章に透明感が増していく。

ただ、フランス語のシオランの作品において、情熱はたしかに抑制されているが、けっして死滅してはいない。フランス文化特有の「書くこと」への偏執を内面化し、母語ではないフランス語という枷(かせ)に自己を拘束した結果、乾いた筆致によって情熱が抑制されながらも表現されることになり、かえって凄みが増している。読者もぜひ読み比べながら、彼のペシミズムを堪能してもらいたい。

*金井裕訳『絶望のきわみで〈新装版〉』『涙と聖者〈新装版〉』『思想の黄昏』、出口裕弘訳『告白と呪詛』、以上、紀伊國屋書店。金井裕訳『四つ裂きの刑』法政大学出版局、有田忠郎訳『崩壊概論』国文社。

大谷崇(ルーマニア思想史研究者)

紀伊國屋書店 scripta
no.60 summer 2021 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

紀伊國屋書店

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