『ゼロエフ』
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被災の現実には届かない。 それでも作家はもがきつづける
[レビュアー] 角幡唯介(探検家・ノンフィクション作家)
ひとりの作家が肉体を酷使して、福島県と宮城県の被災地を歩きつづけた。夏の酷暑のなか、中間貯蔵施設へむかうダンプがばんばん走る、歩道もしばしば途切れる危険な国道の脇を、である。
なぜか? 作家は福島県のシイタケ生産業者の家の出身だ。旅立ちの動機の根底には、この私的な出自の記憶がある。ただ、作家は出自に触れることをおそれている。なぜならば、そこに触れると自分自身を真剣に見据え、自らを語らなければならなくなるからだ。そのうえで作家は立ちあがる。母の死を看取り、墓のなかに祖母より前の世代の遺骨がないことに気づき、シイタケ生産業を継いだ兄に取材し、旅に出る。
テーマは記憶、過去、未来だろうか。作家は徒歩、つまり肉体に経験を打刻することで被災地を理解しようとする。被災者から聞きとる話に反応し、肉体からはおのずと言葉が生まれでる。無論、作家だから、その言葉を何よりも大事にするのだが、でもそこで一歩ひいた視点から客体視し、自らの言葉が被災の現実にとどいていないことに絶句する。現実と言葉のあいだにひらく隙間から洩れてくる呻き。そこから思想を紡ぎ出そうとして、もがきつづける。
記憶は頼りにならないと再三にわたり指摘されるが、この本で語られるのは、じつはすべて記憶でもある。被災者の記憶、本人の記憶……。記憶をたどり、その先にあるはずの「真実」を見つけようとしても、頼りない記憶の奥には空虚が穿たれており、届かない。しかし思考とは結局のところ、経験では到達できない先っぽにあるこの部分を、言葉によって埋めようとする営みのことではないだろうか。
気づくと一緒に息苦しい思いをしている自分がいた。胸にただよう霧を、一緒になってとりはらおうとしている。文体の力強さ、行為のひたむきさが、そうさせる。読みながらともに歩む。そんな本である。