『雪の練習生』
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人間とクマとの美しく感動的な触れ合い
[レビュアー] 野崎歓(仏文学者・東京大学教授)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「接吻」です
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接吻は男と女のあいだのものとは限らないし、人間同士のものとも限らない。たとえば人間とホッキョクグマのあいだにだって、美しく感動的な接吻が交わされ得ることを示したのが、多和田葉子の『雪の練習生』だ。
かつてベルリン動物園にはクヌートという名前のホッキョクグマがいて市民に親しまれていた。多和田もクヌートを可愛らしく思っており、その気持ちが本作品の出発点にあったらしい。
第一部はクヌートの祖母である「わたし」が書いた手記という体裁。不思議に満ちた多和田ワールドでは熊が自伝を綴るのもすんなり受け止めることができる。
続く第二部は「わたし」の娘であるトスカと熊使いの女性ウルズラの物語。そして第三部でクヌートが登場し、飼育係の男性マティアスとの触れ合いを通し自己を確立させていく。
親子三代にわたる熊と人間の交流を愉快に描きつつ、冷戦時代の政治状況を浮かび上がらせるスケールの大きい小説だ。とりわけ記憶に刻まれるのはトスカとウルズラの接吻である。
サーカスの舞台でウルズラが自分の舌に角砂糖をさっとのせる。トスカが顔を近寄せ、角砂糖を舌で絡めとる。「死の接吻」と銘打たれたその出し物は観客の喝采を浴びる。それを女と熊のあいだの「魂」の交流として読者に生き生きと体験させる文章が冴えている。
国境を越え、人間と非人間の壁も越えて広がり出る多和田文学の魅力が凝縮された接吻シーンなのである。