『日本橋に生まれて 本音を申せば』
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日本橋に生まれて 本音を申せば 小林信彦著
[レビュアー] 芝山幹郎(評論家)
◆フラを交えた名人芸
小林信彦さんの最新刊『日本橋に生まれて』は、味わいが深い。年輪がもたらす熟成感のみならず、ダシが利いているというか、思わず立ち止まりたくなる玄妙さがある。
今年九十歳を迎える作家の著書とあって、この本は小林さんの仕事の「集大成」と紹介されがちだ。だがもしかするとこれは、小林さんの世界に触れたばかりの読者、もしくは未来の読者へ向けての「贅沢(ぜいたく)な玄関口」と見るべき一冊ではないだろうか。
私は、好んで詭弁を弄(ろう)しているのではない。<奔流の中での出会い>という章を一読すればわかるが、この本には作者がじかに体験した逸話が多い。スパイシーな指摘もたっぷりちりばめられている。そんな指摘が、あるいは急所を撃つ一行が、なに食わぬ顔でさくっと入り込むのだ。
たとえば、江戸川乱歩の出棺を見送りつつ、《乱歩さんが谷崎さんに近づいてゆく、と私は思った》と述べる箇所がある。あるいは《植木等は色悪(いろあく)めいた外見が目立ち、コメディアンになる要素があまりわからなかった》という指摘も眼(め)に飛び込んでくる。
こういう箇所に出会うと、私はつい剣客の居合い抜きを連想する。木山捷平の随筆なども頭に浮かぶ。映画の手法に喩(たと)えるなら、カット尻の素早い切り上げ。わかる人にはわかるはずという姿勢がクールだ。かつて小林さんが刊行した江戸川乱歩や植木等についての著作を、また読み返したくなる。
いいかえれば、フラ(どことなくおかしな味)がにじむ名人芸。知識が広く深いだけにとどまらず、庖丁(ほうちょう)さばきが際立っている。
きれいな切り口だな、火入れの加減が絶妙だな、と感心しつつ、私は五十年ばかり小林さんの書物を読みつづけてきた。ここに収められているのは、小林さんが積み重ねた厖大(ぼうだい)な仕事のハイライトと呼ぶよりも、仕事の全体像を改めて想起させる不思議な触発力に恵まれた文章なのだ。
従来の愛読者はいまひとたび……そして未来の読者はこの本を玄関口に、小林ワールドという巨大な迷宮に足を踏み入れていただきたい。
(文芸春秋・2420円)
1932年生まれ。作家。『週刊文春』で23年連載された「本音を申せば」シリーズが本作で完結。
◆もう1冊
小林信彦著『決定版 日本の喜劇人』(新潮社)。森繁久彌、植木等、藤山寛美ら、喜劇人の秘密の核心に迫る名著中の名著。