『吼(ほ)えろ道真 大宰府の詩(うた)』澤田瞳子 記念寄稿「二階からの風景」

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吼えろ道真 大宰府の詩

『吼えろ道真 大宰府の詩』

著者
澤田 瞳子 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087444445
発売日
2022/10/20
価格
660円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『吼(ほ)えろ道真 大宰府の詩(うた)』澤田瞳子 記念寄稿「二階からの風景」

[レビュアー] 澤田瞳子(作家)

二階からの風景

 小さい頃からずっと、「天神さま」こと菅原道真(すがわらのみちざね)公はもっとも身近な神さまだった。
 なにせ生まれた時のわたしの住まいは、その名も道真公にちなむ北野紅梅町(きたのこうばいちよう)。幼少時の散歩先の定番は全国の天神社・天満宮の総本社たる北野天満宮で、おかげで他の神社仏閣にはない親しみを天神さまには抱いている。旅行などでその地域の天神社を見かけると、思いがけず知人に出会ったかのようで、何やら嬉しくなってしまう。
 しかも実は大学院を出た後、一時期、働いていた私立美術館がこれまた北野天満宮のすぐそば。この館では天神さまの縁日である毎月二十五日は、来館者殺到間違いなしの繁忙日で、様々な予定が二十五日を中心に据えて組まれていた。おかげで今でもわたしは二十五日が近付くとどこか落ち着かない気持ちになるし、館のすぐ裏にある商店街に出かけると、ただいま! と言いたい気分になる。
「下(しも)の森」と通称されるその商店街は、かつては北野天満宮の森の一部であったことからこの名がある、これまた天神さまゆかりの通り。まだ幼児であった頃のわたしが、美術館で働いていた頃のわたしが、最近では猫を入れたキャリーをひっ抱えたわたしがかかりつけの獣医さんめがけて歩きもする、わが人生屈指の馴染み深い商店街である。
 そんな町の一角に、もう二十年余り、定期的に買い物に行く豆腐屋さんがある。京都市内の大型店舗の中にはこのお店の商品を扱う店もあるのだが、お店の方々の威勢のいい声が楽しくて、直接店頭に出かけてしまうのだ。
 普通の豆腐はもちろんのこと、柚子や胡麻、紫蘇の入った豆腐は冷や奴で食べると最高だし、にがり(凝固剤)の少ない柔らかめの「寄せ豆腐」は豆のおいしさが強く感じられ、幾らでもつるりと食べられる。百合根や銀杏(ぎんなん)の入ったひろうす、豆乳で作ったヨーグルト、はたまた様々な具材を湯葉で包んだ「ふく俵」など、いつでも買いに来られると分かっているのに、嬉しくなって毎回あれこれ買いこみ、しばらく豆腐三昧を楽しむ。しかしそれでもまったく飽きが来ないのが、このお店の豆腐のすごいところだ。
 この豆腐屋さんは北野天満宮の正面に豆腐料理のお店が入った一軒を構えていらっしゃり、そちらは毎日、お昼前からすさまじい行列が生じる。美術館で働いていた頃、上司や先輩がたが、「空いているタイミングで行きましょうよ」と誘ってくれもしたのだが、あまりの賑わいに結局機会がないまま十数年。先日ようやく初めて、念願のお店を訪ねることが出来た。
 二階の窓から見おろせば、慣れ親しんだ北野天満宮の鳥居が斜めに見える。北野天満宮前はもう何十回、いや何百回と通っているのに、いまだに新しい光景を見られるとは。思いがけぬ嬉しさににこにこしながら、美味しい豆腐料理を堪能した。
 今回、刊行の運びとなった『吼(ほ)えろ道真 大宰府の詩(うた)』は、大宰府(だざいふ)に左遷された後の菅原道真公が主人公。八年前に上梓した『泣くな道真』の続編に当たるが、登場人物たちも入れ替わっており、単独の作品としてお楽しみいただけるはずだ。
 史書に従えば、右大臣として朝廷の要職にあった道真は、昌泰(しようたい)四年(九〇一)一月二十五日に大宰員外帥(いんがいのそち)に左遷され、延喜(えんぎ)三年(九〇三)二月二十五日に帰京が叶わぬまま大宰府で没している。
 歴史事実とは後世の者の眼から見れば、ただの記録でしかない。だが過去にはそこに生き、その事実を噛みしめた生身の人物が確かにいた。道真が大宰府で過ごした二年は、我々から見れば「二年」という数字に過ぎないが、実際にその期間を過ごした当事者からすれば、なかなか長い年月であったはずだ。
 わたしは歴史小説の役割の一つは、あったかもしれない過去を等身大の形で提示することと考えている。道真が過ごした大宰府での二年。わたしが描くそれは、歴史書や通説が示す姿と異なる点も多々あろう。しかし豆腐料理屋さんの二階から眺めた天満宮の鳥居の如く、もはや分かり切っていると思われた歴史も、違う場所から眺めてみればまた新たな驚きを提示できるのではなかろうか。
 ちなみに大宰府における道真公を主人公とする物語は、実は当初から三部構成を予定している。というわけで、残りはあと一冊。道真公の西国暮しに、もうしばしお付き合いをいただきたい。

澤田瞳子
さわだ・とうこ●作家。
1977年京都府生まれ。2010年『孤鷹の天』で小説家デビュー、翌年同作品で第17回中山義秀文学賞を受賞。著書に『満つる月の如し 仏師・定朝』(新田次郎文学賞)『若冲』(親鸞賞)『星落ちて、なお』(直木賞)『泣くな道真 大宰府の詩』『腐れ梅』『恋ふらむ鳥は』等多数。

青春と読書
2022年11月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

集英社

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