始めてしまった戦争は「損切り」することができない 『同志少女よ、敵を撃て』の作者・逢坂冬馬が語る

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地図と拳

『地図と拳』

著者
小川 哲 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087718010
発売日
2022/06/24
価格
2,420円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

地図という営為、 拳という愚行

[レビュアー] 逢坂冬馬(作家)

 小川哲にとって『ゲームの王国』に続く長編第三作にあたる本作は、作中経過時間が半世紀以上、主要登場人物数十人に及ぶ超大作である。

 奉天の東にある李家鎮(リージヤジエン)、そこに資源があるかも知れぬという情報をつかんだ二人の日本人、軍人の高木と通訳の細川を発端として、その李家鎮の王「李大綱(リーダーガン)」、ロシア人宣教師クラスニコフら人物が次々と登場し、読者は物語の世界へ引き込まれてゆく。小さな農村であった李家鎮は様々な人物たちを引き寄せ、発展し、名を変え、主を変えてゆく。

 李家鎮に投影されるのは、多様な人物たちの野望と理想だ。しかしいずれの思惑も実現することはなく、街には血にまみれた歴史が築かれていく。

 地上に対する人間の営為とは、自ら認識することが可能な世界を拡張し、その精度を向上させ、掌中に握る領域を築くことにあり、地上が有限である以上、それら無数の思惑は必然的に衝突する。タイトル『地図と拳』の意味もその辺りにある。測量士、建築家、それを志す学生たち。「地図」を志す者たちの「地上に何かを形作ろうとする意思」は登場人物たちを活写する作者の力量により、すさまじい熱量を伴って読者を魅了する。そしてそれらと対をなす「拳」にあたる戦争についても、本作は優れた洞察力を発揮する。ひときわ印象に残るのは、十年後の未来を研究するため「仮想内閣」を設置し、閣僚や日銀総裁の役職を与えられた若者たちが、それぞれの立場から日中戦争をシミュレートするパートだ。戦線拡大派と不拡大派がそれぞれの立場を語った後、「海軍大臣」を担う赤石は全てが無意味だと語る。

「現地で停戦合意がされようが破談しようが、支那軍が徹底抗戦の姿勢で挑んでくることに変わりはないし、(中略)一度戦争が始まれば、戦争を始めた分の元を取らなければならなくなるから日支は全面戦争になる。(中略)この連鎖を止めて損切りすることなどできない。どちらかの国が滅びるまで日支の戦争は続く」

 作中ではこの直後に生起する日中戦争を先取りして総括したようにも読めるこの台詞は、およそ侵略戦争が始まる際の普遍的な理論に思える。ソ連の徹底抗戦をなぜか度外視してソ連に攻め込んだナチス・ドイツも似たような論理展開をしていたし、そして今ウクライナで自らの始めた戦争に溺れているロシアもほぼ同様の展開をたどった。始めてしまった戦争は、たとえ途中で不合理だと気づいたとしても、「損切り」することができず、主人公らも予測した未来を変えるには至らない。

『地図と拳』は、架空の街李家鎮を主人公として、人間の理想と暴力が相克する姿を捉えた、人間の営みの物語である。圧倒的な厚さにおののく必要はない。物理的な厚さにみあった重厚な物語と、小川哲らしい奇妙で愛すべき登場人物(謎の特訓で鋼鉄の体を身につけた「孫悟空(ソンウーコン)」、ひたすら気温に没頭する明男(あけお)などなど)を前に、あなたも李家鎮に魅了されてしまうだろう。

河出書房新社 文藝
2022年冬季号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

河出書房新社

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