病み疲れた心を一枚の紙に描くことの意味と可能性

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病み疲れた心を一枚の紙に描くことの意味と可能性

[レビュアー] 石井千湖(書評家)

『生きていく絵 アートが人を〈癒す〉とき』は、精神科病院の〈造形教室〉で生まれた芸術を紹介した本だ。著者の荒井裕樹は、病気や障害を持った人たちの〈自己表現〉を研究する文学者。病跡学ともアート・セラピーともアウトサイダー・アートとも異なる立場で、〈一人の人間が、病み疲れた心を一枚の紙の上に描くことに、果たしてどのような意味や可能性があるのか〉を考えてゆく。

 本書において重要なキーワードが、副題にもある〈癒し〉だ。荒井さんはそのままにしておいたら生きていけないくらいの苦しみを〈何とか耐え忍ぶことができる〉状態、あるいはそれを可能にするエネルギーを〈癒し〉と定義する。そして、心を病んだ四人の作家がアートを通じた〈自己表現〉によってどのように自分を〈癒し〉、支えていったかを丁寧に語る。

 強迫性障害の症状を絵のなかにさらけだす本木健、主題と背景を切り分けない独特の線で内面的自画像を描く実月、自身の処方薬を毒々しくペインティングして貼り付けるなどして不思議なコラージュを制作する江中裕子、リストカットしたときの血で病葉を描く杉本たまえ……。病気が劇的に回復するわけではないけれども、絵は描いた人の内奥に何らかの変化を起こす。絵を観た人にも、作家の意図を超えた発見や共感をもたらす。

 荒井さんの研究の出発点は、国の政策によって長らく強制隔離され、差別されてきたハンセン病患者の文学だったという。北條民雄『いのちの初夜』(角川文庫)は、ハンセン病患者が自己表現した文学のなかで最も有名な小説集だ。表題作は、病院に収容された青年が、入院初日の出来事を綴る。謎めいた先輩患者の〈いのち〉をめぐる話が衝撃的で忘れがたい。

 ノーラ・エレン・グロース『みんなが手話で話した島』(佐野正信訳、ハヤカワ文庫NF)は、聴覚障害の有無にかかわらず、誰もが手話を使えた島の歴史を繙くノンフィクションだ。自己表現に欠かせない言語と障害の関係について考えさせられる。

新潮社 週刊新潮
2023年2月2日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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