お互いの国が敵同士になった時、男たちの矜持と友情は――

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香港陥落

『香港陥落』

著者
松浦 寿輝 [著]
出版社
講談社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784065300237
発売日
2023/01/13
価格
1,980円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

お互いの国が敵同士になった時、男たちの矜持と友情は――

[レビュアー] 伊藤氏貴(明治大学文学部准教授、文芸評論家)

 今ともに酒を酌み交わしている友と自分が、国同士の都合で敵味方に分かれてしまう。そんな状況に戸惑わない人間はいないだろう。

 一九四一年の香港はまさしくそうした当惑の渦巻く都市だった。しかも単純な二項対立ではない。中国と、約百年にわたる植民地支配者としての英国と、今やそれに取って代わらんとする日本。それぞれの出自を持つ三人の男たちは、三か国の危ういバランスの上に、とりたてて厚くも薄くもない友好関係を築いていた。

 しかしいよいよ日本が香港に進出してきたところで、日本人の谷尾悠介が英国人・ブレント・リーランドと中国人・黄海栄を、以前から会食に使っていたペニンシュラ・ホテルに呼び出す。既に日本軍に接収されたホテルのスイートルームで、谷尾は二人に日本への協力を要請する。

 谷尾はエリート外交官としての地位を捨て、香港で小さな新聞の編集長をやっていた。一方、リーランドもまた、イギリスの香港政庁の職員を辞めてロイター通信社の非正規社員となっていた。何かしら裏がある。

 これがエンタメ小説なら、二人のスパイが互いに謀略の限りを尽くし、自陣営を勝利に導こうとするのだろうが、ここにそのような華やかさを求めてはならない。これは、超人的なスパイの活躍とはまったく遠い、どこまでもリアルな物語なのだ。自分の思惑とまったく関係なく始まった戦争において知人や友人とどう関わっていけばよいのか。それぞれが祖国を愛しつつ、しかしそのために個人としての矜持や友情を捨てることもできない。たとえば谷尾の提案は、二人を守るためのものだった。

 本書は前後半に分かれ、主にそれぞれ谷尾とリーランドの側から描かれる。読みどころは戦後に旧知の人間たちとの再会を遂げたところだ。来し方を振り返ったときに彼らの内に湧き上がる、空虚感とは異なる寂寥感は、人生半ば以上を過ぎた誰しもの胸に深く刺さるだろう。

新潮社 週刊新潮
2023年2月23日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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