『名人』
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川端の心を打った「不敗の名人」が敗れた引退碁
[レビュアー] 川本三郎(評論家)
書評子4人がテーマに沿った名著を紹介
今回のテーマは「勝負」です
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鬼神相撃つ悽愴な勝負が盤上で行なわれる。棋士はいつしか幽鬼の様相を帯びてくる。
昭和十三年、本因坊秀哉名人と木谷實七段とのあいだに名人の引退碁が戦われた。当時、名人は六十四歳。七段は二十九歳と若い。親子のような年齢差があった。
川端康成は主催する東京日日新聞(現・毎日新聞)の依頼でこの名勝負の観戦記事を書くことになった。
その体験から生まれたのが中編小説『名人』。
対局は六月二十六日に芝の紅葉館で始まり、途中、名人の病気入院があり十二月四日に伊東の暖香園で終わった。結果は七段(作中では大竹)の黒五目の勝。
「不敗の名人」が引退碁で敗れたので悲愴な勝負として川端の心を打った。
当時、名人は心臓を病んでいた。夫人がつねに付き添い、時に医者も呼ばれた。
七段もやりにくかっただろう。病気の名人と戦って勝てば批判されるだろうし、といって負ければみじめだ。
しかし、ひとたび勝負になればどちらからも雑念は消える。いわば古武士と若武者の死力を尽くした戦いになる。
川端は、とりわけ名人が碁という無償の行為に打ち込む姿に美を見る。名人は碁を「芸術作品」として打っている。いわば「いにしえの人」だ。一方の若い七段は美より勝負に徹する。
名人の敗北は、古き時代の終わりを告げたのかもしれない。名人は引退碁で力尽きたのだろう、昭和十五年に死去。川端はその死を悼み、この作を捧げた。