『喋り屋いちろう』古舘伊知郎著

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喋り屋いちろう

『喋り屋いちろう』

著者
古舘 伊知郎 [著]
出版社
集英社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784087901108
発売日
2023/07/26
価格
1,760円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

『喋り屋いちろう』古舘伊知郎著

[レビュアー] 川添愛(言語学者・作家)

「歌うように」実況の奥義

 古舘伊知郎の実況は叙事詩だ。本書を読んで、そう確信した。

 本書は著者の自伝的小説にして、実況と実況とを物語で結ぶ「世界初の実況文学」だ。著者のプロレス実況が人々を奮い立たせてきたことは周知の事実だが、文字で読むとまた別の角度からその凄(すご)みが伝わってくる。冒頭のアントニオ猪木VSタイガー・ジェット・シン戦は、さながら神々の闘いのようだ。読むだけで、猪木とシンの姿が古代の彫像のように浮かび上がってくる。

 著者の分身である主人公「いちろう」は、極度のあがり症に悩む青年だが、歌うように実況しているときは不思議と言葉に詰まることがない。このくだりを読んで、著者の実況の本質は「歌」なのだと思った。つまり著者は現代の吟遊詩人で、その実況は現代に蘇(よみがえ)ったニーベルンゲンの歌だ。そうかと思えば、一度実況を始めると「言葉が次々と自分の考えとは別に、勝手に暴れ出す」とも言う。そういう神がかり状態の著者は、レスラーが身体で語る「肉体言語」をつかみ取り、私たちの言語に翻訳してくれるイタコなのかもしれない。

 悩み多きいちろうの背中を押してくれる人々の中でも、アントニオ猪木の存在はこの上なく大きい。「いちろうくんも挑戦したいものが、必ず現れる。そんときは、怖さなんか吹っ飛ぶ。覚えておいてよ、オレはそれを“馬鹿の一本道”って言ってるんだ」。一読者にすぎない私も、まるで自分が言われたかのように心が震えた。

 余談だが、言語学者を名乗ると、よく人から「言葉を使うのがお上手なんでしょう?」と言われる。それは物理学者に「野球がお上手なんでしょう?」と言うようなものだ。言葉を研究しているからといって、うまく使えるとはかぎらない。実際、著者のような言葉の天才を目にすると、眩(まぶ)しさに目がくらんで仕方がない。私は今後も、野球マニアが大谷翔平を見るような憧れのまなざしを著者に向けることだろう。(集英社、1760円)

読売新聞
2023年10月6日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

読売新聞

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