『盧溝橋事件から日中戦争へ』
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『盧溝橋事件から日中戦争へ』岩谷將著
[レビュアー] 井上正也(政治学者・慶応大教授)
泥沼化招いた双方の誤算
一九三七年七月七日に起こった盧溝橋事件は、日中両国による泥沼の長期戦争の始まりとなった。この事件で最初の一発を誰が撃ったかは、長らく論争が続けられてきた。だが、そもそも、これ以前にも類似の衝突が起こっていたにもかかわらず、なぜこの事件が全面戦争へと発展したのか。日中戦争には未(いま)だ解明されていない点が多く残されている。
本書は中国政治史の視点から、日中戦争史研究をリードしてきた著者による待望の一冊だ。日本側史料は言うに及ばず、台湾やアメリカで公開された中国側史料に加え、中国に利害関係を持つ欧米諸国のアーカイブまで丹念に調査した本書は、日中戦争の拡大過程をめぐる世界最高水準の研究といってもよい。
徹底した史料分析に基づく本書が描き出すのは、侵略する日本とそれに抵抗する中国という二分論では割り切れない戦争の複雑な様相である。
たとえば、盧溝橋事件は偶発的に発生したが、事態の収束を困難にしたのは、現地中国軍の抗日意識の高まりだった。さらに北方での武力衝突が一気に全面戦争へと拡大したのは、先手を打って上海の日本軍を壊滅させ、有利な条件で講和に持ち込もうとした蒋介石の決断によるところが大きかった。それは日本の侵略に一貫して受け身に立つ中国という従来のイメージに修正を迫るものだ。
政略と戦略が交錯するなかで、和平の可能性が消滅していく過程も鮮やかに描き出されている。蒋介石は、自軍の力を過信していたのみならず、諸外国からの介入を期待するあまり、上海からの退却のタイミングを見誤った。一方で日本側は和平交渉を模索しながらも、出先軍を十分統制できなかった。その結果、南京の陥落が近づくにつれて、蒋介石否認論が高まり和平は難しくなった。
外交と軍事がかみ合わず、どのように戦争を終結させるかのビジョンを欠いていたのは日本だけではなく、中国も同様だった。日中戦争だけに留(とど)まらず、戦争とは何かを考える上で示唆に富んだ一冊である。(東京大学出版会、5280円)