福沢研究の系譜を辿りながら近代思想史の水脈を浮き彫りにする

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福沢諭吉 変貌する肖像

『福沢諭吉 変貌する肖像』

著者
小川原 正道 [著]
出版社
筑摩書房
ジャンル
哲学・宗教・心理学/哲学
ISBN
9784480075765
発売日
2023/08/07
価格
1,034円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

福沢研究の系譜を辿りながら近代思想史の水脈を浮き彫りにする

[レビュアー] 瀧井一博(国際日本文化研究センター教授)

 明治期に『実業之世界』などを発刊し、「言論界の暴れん坊」の異名をとったジャーナリスト野依秀市は、伊藤博文に突撃取材を行っている。同世代の人物評を伊藤から聞き出すなかで、福沢諭吉については、「とにかく豪ひ奴」、「今日あれが養成した学生は全国に瀰漫して大勢力となって居る」との言葉を引き出している(『実業之世界』第六巻第十号)。一般に不倶戴天の敵と見なされる伊藤からこのように評せられるほど、その功績は当時から屹立していた。

 本書は、福沢を対象とした言説史をたどりながら、近現代日本の思想空間を照射する試みである。これに先立ち著者は、『独立のすすめ 福沢諭吉演説集』(講談社学術文庫)を編纂しており、そこでは福沢が何を考え、公衆に何を訴えようとしていたかの解明が目指されているが、今回新たに書き下ろされた本書と併読すれば、福沢諭吉という思想体系の全容を内と外から垣間見ることができるだろう。

 本書で興味深いのは、学界での福沢論に筆を限定していないことである。冒頭で名前の出た野依は慶應義塾出身で福沢の信奉者だった。彼なりの福沢イズムの社会への浸透を狙ってメディア活動を行った。戦前の右翼思想家で慶應義塾で教鞭を執った蓑田胸喜も時に自説を福沢の著作で粉飾しながら帝国大学アカデミズムを糾弾していた。福沢自身の議論のなかに国権の重視や「脱亜論」に象徴される進歩史観的な対外意識が萌(きざ)されており、福沢は様々な立場から利用価値があったのである。

 だが本書の価値はやはり、慶應義塾大学で日本政治思想史を講じる著者によって、福沢研究の系譜を辿りながら、日本近代思想史のひとつの大きな水脈が浮き彫りにされている点にある。田中王堂から富田正文らの慶應学派を経て丸山眞男へと至る研究史の流れをさばく手腕は鮮やかである。中村光夫や小林秀雄のような意外な人物の論評にも目配りがされており、特に小林の福沢論を福沢と儒学の関係に着目した近年の研究の先駆と評価している。

 本書は一九八〇年代までを対象としており、現在の福沢論の新たな展開に筆が及んでいないという憾(うら)みがある。今日、福沢研究は、江戸思想史との連続性がトピックとなっている。その一端を知りたければ、著者の同僚の大久保健晴氏の近作『福沢諭吉 最後の蘭学者』(講談社現代新書)を手に取ればよい。慶應の俊英思想史家二人の競演によって、福沢諭吉の“今”を知ることができる。

新潮社 週刊新潮
2023年11月2日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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