『鮪立の海』
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宮城県出身の著者が故郷を舞台に描く成長物語
[レビュアー] 杉江松恋(書評家)
潮騒が聞こえるような小説だ。
熊谷達也『鮪立(しびたち)の海』は、宮城県出身の作者が故郷の三陸海岸を舞台として描いた成長の物語である。
漁師の家に生まれた菊田守一にとって、船頭を務める父・惣吉、そして年の離れた兄で漁師の先輩でもある惣一は憧れの存在だった。やがて守一は、カシキと呼ばれる飯炊きとして父の船に乗り込む。少しでも早く一人前になりたいと願う守一だったが、彼を嘲笑うかのように世情は暗転していった。第二次世界大戦に突入、太平洋を行く漁師たちにもその影響は及んできた。惣吉の船・向洋丸が補助監視船として徴用されたのだ。となれば漁船として操業をするかたわら、指定海域における哨戒・監視活動が義務付けられる。守一は下船を命じられるが、自らの熱情を抑えることはできなかった。向洋丸の雑納庫に潜み、彼は再び海へと出ていく。
第二次世界大戦前後、漁師が自分たちの棲み処ともいえる海を奪われた時代があった。戦火によって乗るべき船を失った守一も同様だ。小説の後半では、守一が進むべき針路を見失って惑うさまがもどかしく描かれることになる。彼の姿は、大きな社会変動に乗り切れなかった日本国民の象徴でもあるのだ。もちろん、人生の岐路において初めて重大な選択を迫られた青年の姿を微笑ましく見守る小説でもある。守一の心中にあるのは、青い海、魚の泳ぐ豊かな海を望む純粋な思いだけなのだ。
ここ最近の熊谷は〈仙河海〉という架空都市を舞台にした物語を書き続けてきた。出身地である仙台を彷彿とさせると同時に、「人」「山」「河」「海」のすべてが含まれる、つまり故郷そのものを表した地名なのだ。一旦は海を奪われた男が、再びその海へと還っていこうとする。物語構造の土台には言うまでもなく東日本大震災とその復興に対する強い願いがある。熊谷はこの小説をひたすら明るく煌めくものとして書き上げた。未来への祈りのようだ。