塩野七生「十七歳の夏――読者に」(『ギリシア人の物語III 新しき力』あとがき)

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塩野七生
塩野七生

昨年末に刊行され、NHKニュースウォッチ9でも取り上げられるなど、大きな話題を呼んだ塩野七生さんの『ギリシア人の物語III 新しき力』。塩野さんは今年、デビュー50周年を迎え、その長いキャリアで「歴史エッセイ」と呼ばれるジャンルを確立しましたが、今作はその最後と位置付けて執筆されました。そのあとがきを特別に公開します。

    *    *    *

 萩原朔太郎に次の詩がある。

  フランスへ行きたしと思えども
  フランスはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままなる旅にいでてみん

 その年の夏を伊豆で過ごしていた私は、次のように変えて歌っていたのだった。

  地中海へ行きたしと思えども
  地中海はあまりに遠し
  せめては伊豆の海で足をバチャバチャさせ……

 替え歌にもならないや、とわが詩心の貧しさには絶望したが、十七歳では楽観的だ。
 この伊豆の海だって、東シナ海を通り南シナ海も通り、インド洋を横切って紅海に入り、そこを北上してスエズ運河を通り抜ければ地中海とつながっているのだと、古代のギリシア人が葡萄酒の海と呼んだ地中海に想いを馳せるのはやめなかったのである。
 それから九年が過ぎた年の秋、かつてはローマ帝国の外港があったオスティアの浜辺で、足をバチャバチャさせていた。
 地球を半分まわるだけなのに九年もかかってしまったのは、当時は日本全体が貧しかったからである。この翌年、戦後からの復興を高々と謳いあげた東京オリンピックが開催される。

 私のほうは、地中海をめぐる旅を始めていた。なにしろ、一ドルが三百六十円の時代だ。旅と言っても、陸上ならばオートストップ、海上ではヨットストップになる。
 ヨットハーバーに行くと、停泊中の船の舳先に、どこそこまで一人、と書いた札が下がっている。適当と思うヨットに応募して、拾ってもらうというわけ。乗船中は働かねばならないが、その間の住と食は保証されたうえに乗船料もタダ。
 ヨット未経験だった私でも拾ってくれたぐらいだから、十メートル程度という小型のヨットで、朝に出て夕方には次の目的地に入るという、沿岸航行しかできない。だが、それなりの利点はあった。
 このやり方で地中海をめぐる人の考えるヨットは、スポーツではなくて旅の「足」なのだ。寄港のたびに数泊しては周辺一帯の観光をしてまわるほうが、主目的なのである。だから、一週間以上もヨットは船着き場に置き去りにしたまま陸地をうろついてまわるのもしばしばだった。どうやら、ヨット操縦の助手だけでなく、話し相手にもなると思われたらしい私も、すべてに同行した。
 ジープを借りて、カルタゴに遺るローマ水道の遺構の下を百キロ先の水源地までたどって行ったのもこのとき。北アフリカに遺るローマ時代の遺跡を見てまわり、アレクサンドリアに寄港すればナイルからカイロへ、そしてピラミッドへ、と。もちろんイェルサレムもはずさなかったし、ダマスカスからシリア砂漠を越えてパルミラまで足を伸ばしたのだ。戦乱の地と化している現在とはちがって、一九六〇年代前半は、珍しくも世界中が安全な時期であったらしい。どこへ行っても身体検査などはされたことはなく、パスポートを提示するだけでOKであったのだから。
 二年ほどしてもどってきたローマで、偶然に、日本へ帰ったら「中央公論」の編集長になるという、粕谷一希に出会った。時間だけは十分にあったので、彼のローマ滞在の数日をともにしたのだが、その最後の日に粕谷さんが言った。「ルネサンスの女たち、という題をあげるから書いてみませんか」
 地中海めぐりも少し飽きていたので、受けた。粕谷氏が担当に指名したのが、当時はパリにいて、フランスの新聞や雑誌社をまわって編集者修行をしていた塙嘉彦である。この人とは、私が必要とする史書や研究書を原文で読み合いながら、考えを言い合える仲になる。
『ルネサンスの女たち』の第一話になる「イザベッラ・デステ」の校了を徹夜で終え、印刷所の玄関を出てきたときだった。朝の光りが白く漂い始める中で、ふと足を止めた塙さんが私に言った。
「翻訳文化の岩波に抗して、ボクたちは国産で行こう」
 三十歳を中にして三歳くらいしか年のちがわない若輩二人が、学者たちの牙城の観があった岩波に抗するなど、どう考えようと正気の沙汰ではない。それでこのことは、私たち二人の間の密約ということにしたのである。
 だから、この十五年後に彼が白血病で世を去るときも、われわれ二人の別れは一言で足りた。
「続けます」。声も出なくなっていた塙さんは、それに眼だけで答えてくれた。

 塙嘉彦に死なれた後でも、私の作品を認めてくれる編集者には不足しなかった。
 書きたいと思っているテーマを話すと、彼らは言う。「いいでしょう、お書きなさい」。それが雑誌だと、その後に続くのは「載せます」になり、書籍担当だと、「本にしましょう」になるだけ。
 とは言っても、出版業は慈善事業ではない。利益はさしたるものではなくても、営利事業なのだ。出版する先から赤字の連続では、編集者とて「本にしましょう」とばかりも言ってはいられなくなる。
 そこで助けの手を差し伸べてくれたのが、読むだけでなく、買って読んでくれたあなた方だったのです。
 ミリオンセラーには縁はなかったが、出版社の倉庫に返品の山が築かれない程度には本を買ってくれる読者に恵まれたのは、私にとっては最良のサポートになった。
 組織に属したことは一度としてないので、作品を売る以外に収入の道はない。それでも五十年にわたって書きつづけてこれたのは、私の作品を買って読むことで、私が仕事をつづける環境を整えてくれた読者がいたからである。

『ローマ人の物語』の全巻が刊行されたのを機に、読者たちにこの感謝の想いを伝えることにした。トヨタの豊田章一郎氏からは、エンドユーザーまわりだねと笑われたけれど、日本中はまわれなくても五、六箇所はまわったと思う。そのたびに繰り返した。
 あなた方が書物を読むのは、新しい知識や歴史を読む愉しみを得たいと期待してのことだと思いますが、それだけならば一方通行でしかない。ところが、著者と読者の関係は一方通行ではないのです。
 作品を買ってそれを読むという行為は、それを書いた著者に、次の作品を書く機会までも与えてくれることになるのですから。

 あれから十一年が過ぎようとしている。今の私には、エンドユーザーたちへの感謝を述べてまわるだけの、体力はもはやない。
 と言っても、調べ、考え、それを基にして歴史を再構築していくという意味での「歴史エッセイ」は、この巻を最後に終えることに決めたので、何かは言い残す必要はある。それで、この巻の最後に載せるこの一文で代えることを許してほしい。
 ほんとうにありがとう。これまで私が書きつづけてこれたのも、あなた方がいてくれたからでした。
 そして、「歴史エッセイ」にかぎったとしても、全作品を図にしてみたので、それも見てください。
 あなた方が、どの作品の助成者になったかも、一見しただけでわかるはずですから。
 最後にもう一度、ほんとうにありがとう。イタリア語ならば「グラツィエ・ミッレ」。つまり、「一千回もありがとう」。
  二〇一七年・秋、ローマにて

塩野七生

塩野七生「歴史エッセイ」一覧
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2018年2月5日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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