コロナ問題で変わっていく価値観とは何か 養老孟司が考えるコロナ論【#コロナとどう暮らす】

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夜には死ぬという前提で毎日を始める

 さてどうすればいいのか。いい加減に秩序的に世界を動かすことを諦めたらいかが。それは無政府とか、無秩序を勧めるというわけではない。ヒトの一生とは「起きて半畳、寝て一畳」の世界であろう。その日常を超えて、いろいろやろうとする、そのためにはとてつもない供給能力が必要であろう。果たしてそれが可能かを、すべての人が自問自答してみる必要があると思う。

 コロナ問題は、すでに落ち気味だったグローバリズムの評判をさらに落とした。それがいいことか具合の悪いことか、私には判断できない。テレビでグローバリズムはもう終わりだ、と発言した人がいた。少し気が早いと思う。イタリアは多数の感染者を出して、医療崩壊に近くなった。病院を減らし、ベッド数を減らした緊縮財政のためだったといわれる。念のためだが、日本で県別にベッド数と総死亡数の関連を調べると、両者に相関がないことがわかる。

 政府が医療から手を引いて行けば、グローバル企業に都合のいい状況が生まれる。国営か民営か。国民の意見が分かれるところであろう。コロナがそうした問題を表面に浮かび上がらせた。日本という国家はとくにはっきりした将来の問題を抱えている。それは今世紀半ばまでにと予測されている東南海地震と、いつ来るかわからない首都直下型地震である。それらに対応する能力は果たして十分なのか。それらの災害対策はグローバル企業に任せておけるのか。問題をそう設定すれば、解答は言うまでもないであろう。日本はよりナショナリズムに向かうはずである。グローバル企業は経済原理で災害対策はしないであろう。余分な医療供給能力なんか準備するはずがない。当座の経済的利益に資するわけがないからである。

 自分が日常を生きて行くときに排すべきなのは。本日のコロナによる死亡者何名という神様目線であろう。神様目線が生存に有効になるような社会を構築すべきではない。神様目線の対極は文学の目線であろう。我が国の文学は伝統的に花鳥風月を主題としてきた。当たり前だが、花鳥風月は人ではない。コロナが終わった後に国民の中に対人の仕事をするより対物の仕事をする傾向が育てばと願う。具体的には職人や一次産業従事者、あるいはいわゆる田舎暮らしである。そういうことが十分に可能であれば国=社会の将来は明るいと思う。対人のグローバリズムに問題は多いが、対物のグローバリズムに問題は少ない。自然科学は対物グローバリズムといってもいいであろう。物理法則は言語や文化の違いで変化しない。対人より対物で生きる方が幸せだと感じる人は多いと思う。

 登校拒否児が増えていると聞くが、学校教育自体が対人に偏っているからではないかと危惧する。いじめ問題の根源はそれであろう。子どもたちの理想の職業がユーチューバーだというのは、対人偏向を示していないか。なにか他人が気に入るものを提供しようとする、対人の最たるものであろう。人が人のことにだけ集中する。これはほとんど社会の自家中毒というべきではないか。

 昨秋にキノコ好きの高校生四人と一日を過ごした。どの生徒も、通信教育校に通っている。学校に対して不適応なのだが、キノコに対しては徹底的に適応している。キノコの放射能汚染が問題になっている世情を考えると、こうした生徒たちが将来世の役に立つであろうことは間違いないと感じる。現在の生物分類では真核生物は四つに大別されている、原生生物、動物、植物、菌類である。彼らは動物学者でも植物学者でもなく、すでに菌類学者である。現在の学校教育のシステムは彼らを評価する機能を備えていない。

 アップルの創始者スティーヴ・ジョブズはStay home.ではなく、Stay hungry, Stay foolish.とスタンフォード大学の卒業式の式辞で述べた。その真意は捉えにくい。ただし式辞全体をネットで聞くことができる。素晴らしいスピーチというべきであろう。その中で彼は言う。「夜には死ぬという前提で毎日を始める」。コロナは死という生の前提を各人の目前にもたらした。これで人と人が構成する社会が成熟しないはずがない。それを期待して、本稿を終える。

養老孟司(ようろう・たけし)
1937(昭和12)年、鎌倉生れ。解剖学者。東京大学医学部卒。東京大学名誉教授。心の問題や社会現象を、脳科学や解剖学などの知識を交えながら解説し、多くの読者を得た。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。新潮新書『バカの壁』は大ヒットし2003年のベストセラー第1位、また新語・流行語大賞、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。大の虫好きとして知られ、昆虫採集・標本作成を続けている。『唯脳論』『身体の文学史』『手入れという思想』『遺言。』『半分生きて、半分死んでいる』など著書多数。

養老孟司

新潮社 新潮
2020年7月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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