ノーベル文学賞候補で注目 ディストピア文学で再評価されるマーガレット・アトウッドの魅力とは?

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 先ほど言及した世界観の造りこみとリアリティという問題にもどると、たしかにかつてのディストピア小説は現実味というのを重要視していた。未来の世界観を構築するのに、想像しうる最先端のハイテクノロジーを投入した。振り返ってみれば、ディストピア小説の起源とも言える、ジュール・ヴェルヌが十九世紀半ばに書いた『二十世紀のパリ』からして、未来の先端技術が満載だった。高架鉄道、エレベーター、電信、ファクシミリ、リニアモーターカーなどが、すでに書かれていたのだ。ハクスリー、オーウェル、ヴォネガットしかり。主に男性作家の書いたディストピア文学はSFとの長い蜜月を過ごした。

 しかし一九九〇年代以降は、未来を舞台にしたディストピア小説でも、その世界観を表現するのに、マスキュリニティに彩られたSF的ガジェットをあえて投入しない『侍女の物語』や『密やかな結晶』のような描き方のほうが、むしろ主流になってきたのではないだろうか。二〇〇五年に出たカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』も、高度に発達した遺伝子操作やクローン技術は物語の背後にあるだけで、つまびらかにしない。その後に刊行された多和田葉子の『献灯使』(マーガレット満谷英訳のThe Emissaryが二〇一八年全米図書賞翻訳文学部門受賞)にしても、J・M・クッツェーの『イエスの幼子時代』に始まる三部作にしても、ディストピアな管理体制は不気味にぼんやりと背後に浮かびあがるだけで、機構の詳細は説明されない。英米圏でも評価の高い村田沙耶香の『地球星人』や『消滅世界』、川上弘美の『大きな鳥にさらわれないよう』や、作家が言語と思想統制のため当局に監禁される桐野夏生の『日没』なども同様である。

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 さて、アトウッドの『侍女の物語』の続編『誓願』は、前作と語りのスタイルや視点が大きく変わった。静と動と言ってもいいと思う。暗く、重く、「侍女」の単独視点で語られる前作から、ギレアデ国の幹部、司令官の娘、他国(カナダ)のティーンエイジャーと、立場の違う三人の語り手を配し、シーンをテンポよく切り替えながら、このカルト国家の動乱の時代を立体的に浮かびあがらせていく『誓願』。これはたんなる作者の作風の変化ではない。一つにはすでに述べたが、語り手の視点のあり方の違い。それから、これは重要な点だが、アトウッド自身の自作への解釈に変化が起きたこと。自ら作りだした虚構に現実のほうが予想を超えて近づき、そのことに人々が気づいているいま、『侍女の物語』は警告の域を超えて、「予言小説」と言われるようになってしまった。そうした状況で、作者は前作と同じような出口のない重苦しいディストピア小説を書くことには、意義を見出しがたかったのだろう。『誓願』は、国の幹部の超越的視点、支配者層の娘の二重視点、他国の女性の客観的視点という複合的な語りをとっているため、前作よりギレアデ国内の構造がよくわかる造りになっている。

 ここに、ファンタジーとディストピアの違いが明らかになる。

 ファンタジーとは、今いる世界とそうでない世界を行き来するものであり(その境が曖昧なこともあり)、そのどちらかが偽物だとか、インチキだとかいうものではない。

 ディストピアの本質は、ユートピアを装った管理監視社会の暗部を抉り出し、その体制の危うさや欺瞞、虚偽性を暴くことにある。『誓願』には『侍女の物語』のフェイク性を鋭く指摘する役割もあり、しばしばギレアデの国家体制は滑稽にすら映るだろう。それが、『誓願』にはコミカルな要素がある(と読者に驚かれたりするが)所以である。この続編は正編に描かれたギレアデ共和国の崩壊を描くだけではない。『誓願』は『侍女の物語』をある意味、解体するものなのだ。

 たとえば、伝道団兼スパイ組織にあたる〈真珠女子(パールガールズ)〉のメンバーが、他国から誘拐に近い形で連れてきた若い女性を、礼拝堂の〈感謝の儀〉で紹介する場面がある。彼女たちが入っていくと、信徒席をうめたギレアデ国の女性たちがほがらかに微笑み、霊歌のような明るい歌をうたって出迎える。

真珠を獲りこんで
真珠を獲りこんで
そうして歓びが訪れましょう
真珠を獲りこんで

 これは旧約聖書「詩編」に由来するゴスペルで、ネットで”Bringing in the Pearls, Bringing in the Pearls, We will come rejoicing,”と原文を入れて検索してもらえればすぐに出てくるが、収穫とその喜びをうたった陽気な歌だ。〈真珠女子〉というのはネーミングからして怪しいが、メンバーは首に模造品の真珠のネックレスをさげ、偽造したパスポートで国外と行き来し、紛いものの聖書を信仰している。こんなイカサマに騙される人間がいるのか? と、あなたは思うかもしれない。でも、忘れないでほしい。四半世紀前に地下鉄で毒物のサリンを撒くテロで多くの人を犠牲にしたカルト教団のことを。犯人たちが逮捕され、教団の内部事情が明るみに出ると、「省」や「庁」など日本政府の模倣をしたような組織構造や、ホーリーネームと言われる偽名、ヘッドギアと言われる如何わしい被りものに、だれもが呆れ、嗤ったけれど、それまでは、著名な宗教学者や知識人までがこの宗教と教祖を称えていたではないか?

 特殊な生殖・出産制度をもつギレアデでは、生物学的なつながりのない親子が多く、『誓願』のヒロインの一人は実の両親と思っていたふたりがそうではないとわかったときに、自分をa bad magician: a fake, like a fake antique. I was a forgery.(なんちゃってマジシャンっていうか、にせもの、紛い物の骨とう品、見せかけの存在)だと感じる。本作では、あらゆる登場人物が詐称や身元偽装をしているか、自らの真の身元がわからない状態にあり、fake, forgery, fraud, imitation, replicaという語が繰り返し使われる。「偽」と「裏切り」に満ちた狂信の世界から、彼女たちは抜けだすことができるのか。続きはぜひ本書をお読みいただきたい。

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『侍女の物語』と『密やかな結晶』という約十年違いで出版された二十世紀のディストピア小説の数奇な運命を思う。この二作は後世の二次作品(ドラマと翻訳)によってその真の本質をより明らかにされたと言えるのではないか。

『密やかな結晶』はアメリカで映画化が決まったと先日発表された。メガホンをとるのが、「ハンドメイズ・テイル~侍女の物語~」のリード・モラーノであることは、たんなる奇遇とはわたしには思えない。

鴻巣友季子(翻訳家・文芸評論家)

新潮社 yom yom
vol.65(2020年11月20日配信号) 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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