内戦状態に陥った日本を舞台にした近未来小説 佐々木譲『裂けた明日』試し読み

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 内戦下日本。元公務員の命がけの決死行! 胸に秘めた理由とは。どんでん返しが待ち受ける傑作!!

 警察小説の名手として知られる作家・佐々木譲による近未来小説『裂けた明日』。内戦状態に陥った日本を舞台にした本作から試し読みとして冒頭の一部を公開します。

 ***

 ちょうど上りの電車が、駅に近づいてきた。
 前方の踏み切りで、警報機が鳴り出した。遮断機がゆっくりと下りてくる。彼女が足を速めようとした。彼は立ち止まった。彼女が彼の右のてのひらに重ねていた手が離れた。
 彼女は振り返ってきた。ここまで? と、目で訊いてくる。どうしても、ここまで?
 彼は戸惑った。もう何度も、伝えたつもりだった。今朝だって、遠回しに。だからそう問われても、言葉が出ない。彼は黙ったままでいた。うなずくこともせず、首を横に振ることもしなかった。ただ黙って彼女の視線を受け止めた。ここまでだ。自分は何も約束していない。
 昨夜も彼は自分自身に言い聞かせている。この朝に完全に終わりにするのだと。いま自分が一緒に踏み切りを渡れば、せっかくの決意は確実に霧散する。もろもろ彼女に語ってきた事情、因縁、束縛のすべてを捨てると、彼女に告げるだろう。この二日間、何度もそれを口にする衝動と戦い、抑えてきた言葉を、言ってしまうだろう。じっさいいま、餓\_rかつ\/えるまでにそう口にしたい自分がいるのだ。
 しかし、こらえなければならない。自分は踏み切りを一緒に渡るわけにはいかない。このふた晩のことは、彼女が最初そのつもりでいたように、ふたりの関係に別の意味を持たせるものではなかった。せいぜいが、何の変わりようもないことを確かめるための儀式のような時間だった。そのはずだ。彼女だって、心を決めたうえで、必要なことを吟味して、一昨日この駅に降り立ったのだ。
 踏み切りの警報に促されるように、彼女が彼を見つめたままあとじさった。ほんとうにそれでいいの? と彼女の目がまた問うてきた。
 彼は右手を上げ、胸の横で左右に振った。口を開けば、たぶん正直なところを言ってしまう。だから、さようならと手を振る。これが答だ。
 遮断機がゆっくりと下りてきた。彼女は唇を結ぶと、くるりと踵\_rきびす\/を返し、踏み切りの中へと駆け出した。彼女が踏み切りを渡り切ったところで、遮断機がすっかり下りた。
 彼は彼女が改札口を抜けてホームに上がってゆくところを見送った。彼女はもう振り返ったりはしなかった。踏み切りのこちらに目を向けて彼の姿を探す素振りはなかった。
 彼の立つ路上から、彼女の姿は見えなくなった。各駅停車の上り電車が、制動をかけながら踏み切りに入ってきた。すぐに上りホームは完全に車両に隠れた。
 三十秒ほどで電車が発進してゆき、遮断機が上がった。ホームには彼女の姿はなかった。
 彼は安堵した。自分は冷酷と非情を貫くことができた。侮蔑を引き受けた。別れるに値する男だったと、彼女は確信したことだろう。彼はそれを望んだのだ。
 遠ざかっていく電車を見送りながら、彼は胸のうちで彼女に謝罪した。
 すまない。
 彼女に直接言ったならば、彼女は問い詰めてきたはずだ。何が? どういう意味? 何に謝っているの? どうして?
 答を明確には持っていない。ただ、彼は自分が謝るべきとは感じている。自分の小心さと臆病さが、彼女を自分の想像以上に傷つけたと承知している。しかし自分の胸の底には、暗い恐怖がある。彼女がいまから畏れ、抗おうとしている明日に、彼はもう屈伏しているのだ。だから引いた。逃げた。故郷の田舎町に帰ることをまるで宿命のように語った。それができるうちに。それが非難されぬうちに。
 また踏み切りの警報機が鳴り出した。下り電車が駅に着くところのようだ。彼は踏み切りに背を向け、いまふたりで来た道をアパートに向かって歩き出した。足どりは重いものとなった。月曜の早朝だ。
 この週末の秘密は、ふたりを別った。ふたりを遠ざけた。
 自分たちの関係はおそらく、始まることなく終わったのだ。

   1

 西の方角から、鈍い重い音が響いてきた。
 沖本信也は思わず身をすくめ、耳を澄ました。
 砲撃? それとも飛行機による爆撃か。
 わずかの間を置いて、また衝撃音があった。ふたつ目のその音は、最初よりも大きな音に聞こえた。ほとんど間を空けなかった三つ目の衝撃音が重なったのかもしれない。地響きがあったようにも感じたが、確信は持てなかった。
 どちらにせよ、近くではない。少なくともこの二本松市から二十キロ以上は離れた場所での爆発音だ。あるいはそれ以上の距離か。しばらく絶えていた音だけれど、情勢がまた変化したのかもしれない。
 信也は、裏庭の小さな菜園の脇で立ち上がった。音がしたのは、猪苗代湖とか、会津若松市の周辺だろう。あちらで砲撃とか空爆があったのだ。ひと月ほど前から、会津盆地の北に、盛岡政府側の地上軍や民兵部隊が集結しているという話が聞こえていた。
 これに対して、平和維持軍のどこかの部隊が攻撃に出たのだ。あるいはその逆かもしれないが、あの爆発音だけではその判別は難しい。いずれにせよ、これからまた当分のあいだ、会津盆地から東に抜けた先の郡山市の周辺は、危険地域となる。また難民が出る。国道四号線に、避難民の長い列ができる。
 信也が西の山並みから自分の菜園のカボチャに目を移したときだ。家のすぐ表の道路に車が停まった音がした。客? それとも郵便か宅配便だろうか。いや、誰かが手紙や小荷物を送ってくれるということも、絶えて久しくなっていた。そもそも国土が分断され、戦争が続いているせいで、郵便物は一部の地方には出すことができないし、その地方からももらうことができない。かつて全国を結んでいた宅配便のサービス網も分断されている。たぶん車はそれらの配達車ではない。
 信也は裏庭から、駐車スペースの軽自動車と家の壁との間を歩いて表へと出た。
 二本松市の市街地の中に、ぽつりと取り残されたような丘陵地の一画だ。緩い傾斜地にあって、裏庭の向こうはすぐに蔵場山という里山の雑木林となる。家につながる道路は自動車には袋小路となっているが、ひとは山の鞍部を東に抜けていくことができた。抜けた先は国道四号線につながっている。
 家の正面に回ると、車高のあるSUV車が二台、家の前に停まっていた。玄関先に男が四人立っている。ふたりは民兵のようだ。民間防衛隊の迷彩服を着ている。胸には白地に赤いストライプのエンブレム。あとのふたりは私服で、オリーブ色のカーゴパンツに黒いシャツを着ている。
 最年長、と言っても三十代なかばくらいの迷彩服の男が進み出てきた。姿勢がよく、顔にはほとんど脂肪がなかった。腰のベルトには、拳銃のホルスターが装着されている。
 彼が言った。
「東北民間防衛隊の佐藤と言います。沖本信也さんは、こちらですか」
 微笑しているが、声はどこか皮肉っぽい。民間防衛隊では下士官か将校なのだろう。戦争以前は自衛隊の尉官だったのではないかと思えた。
 信也は答えた。
「沖本です。何か?」
「ひとを追っています。テロ組織の女です」
「ご苦労さまです」
「女の名前は、サカイマチです。ご存じですか?」
「サカイマチ?」
「ええ」
 佐藤は、酒井真智、と書くのだとつけ加えた。
 酒井真智。信也は直接には答えなかった。
「有名な女性なんですか?」
「仙台市内で治安紊乱活動に関わっていて、数日前に仙台を逃げました。こちらに向かったという情報があります。自分の娘を連れています」
「こちらというのは、二本松市のことですか?」
「沖本さんのお宅です。来ていますか?」
「いいえ。誰も」逆に訊いた。「その酒井真智という女性が、どうしてうちに来るんです?」
「理由はわかりません。目的地はあなたの家だ、という情報があったというだけです」
「どこからです?」
「言えませんが、信頼できる情報源からです」
「わたしはテロ組織にも治安紊乱活動にも無縁ですが」
「こちらの市役所にお勤めの当時、組合の執行委員をしていた時期がありますね」
「たしかに」
 組合活動に関わっていたという経歴は、最近は平和維持軍の占領を支持する者とほとんど同義の扱いになっているらしい。反盛岡政府活動家とまでは決めつけられないにせよだ。
 佐藤が言った。
「また、沖本さんは以前に、有害図書摘発運動で多数の本を自主放棄されていますね。高麗連邦とか、中国に関しての」
 たしかにそういうことはあった。地元の町内会が実施したその運動で、信也の自宅の書棚が町内会の担当者にあらためられたときだ。わずかな蔵書のうち三十数冊について、有無を言わさずに放棄同意書にサインをさせられたのだ。アジアの近代や現代史関連のノンフィクションが、有害図書だと指摘された。その中には、高麗連邦の旅行案内書や、中国の古いテレビ・ドラマ『辛亥革命』の観賞ガイドブックも含まれていた。
 信也は言った。
「何冊か本を持っていかれたのは事実ですが、それとその酒井真智という女性がどう関係するんです?」
「酒井真智という女は」と、佐藤は言った。「高麗人と結婚し、日本に舞い戻って、戦争が始まってからは国内でテロ活動に関わっていたのです。外国勢力の工作員だという言い方もできます」
「だからわたしと関係があるというんですか?」
「想像できる思想傾向が、反政府側住民のものと似通っています。とにかく、家の中を調べさせてもらいます」
「わたしが、ひとりで暮らしているだけです」
 佐藤がわざとらしくまた微笑を見せた。
「我々の捜索には、ご協力いただけないということですか?」
 拒むことはできそうもなかった。民間防衛隊は、建前上は民兵組織ということになっている。でもじっさいは、あの戦争がいったん終わったときに解体された国土防衛隊が母体となっているし、警察権も保持しているのだ。
 信也は身体の向きを変えながら、どうぞ、と言ってドアを開けた。
 信也が玄関に入ると、四人の男たちも信也の背を押すようにして続いてきた。
 玄関から居間に進むと、佐藤が黒いシャツの青年たちに、二階を見るように指示した。ふたりは土足のまま玄関の横手にある階段を駆け上っていった。もうひとりの若い迷彩服の男は、玄関の靴箱の中を覗いた。
 二階建ての、居室が四つの家だ。二本松市の市役所職員だった自分が、結婚して四年目、三十歳になったところで建てた。地元の農家が蔵場山という里山の緩斜面を宅地として造成し売り出したので、信也はもっとも奥の、つまり坂道の上の端の区画を手に入れたのだった。
 職場結婚の妻は七年前のあの病気の大流行のとき、勤めていた老人養護施設で感染して死亡した。それ以来、信也はこの家でひとり暮らしだ。妻とのあいだには男の子がひとりできたが、その息子と家族は、南海大震災の際に、住んでいた静岡でみな亡くなっている。
 妻が病死したとき、信也は二本松市役所の嘱託職員だった。定年で退職したあとも、それまでの部署、環境衛生課清掃局の総務に、嘱託として再任用されていたのだった。産業廃棄物の不法投棄に目を光らせ、これを処理することが主な仕事だった。福島県内のべつの市町村に派遣されて、放射能汚染地区で働くこともあった。市役所の勤務規定ではもう一年勤めることもできたのだが、妻の納骨が終わったところで、市役所の嘱託の勤めも辞めたのだった。
 家は、建築後四十年を過ぎている。二階にはふたつ部屋があるが、いまはもっぱら一階だけで暮らしている。壁もほうぼうが傷み、設備も不調のものが多かった。しかし信也はいまさら補修しようとも思わない。そもそも補修のための費用を捻出できないし、補修したところで自分はあと何年住み続けられるだろう。家が朽ちるのに合わせて、自分の余命も静かに失われていくことが、いまや信也の唯一の、そして切実な願いとなっていた。
 佐藤は編み上げ靴のまま家の中に入ってきて、さっと居間の中を見回してから言った。
「ケータイを見せてもらえますか」
 発着信履歴を調べるということだろう。もし自分が治安紊乱活動家と関わっているとしたら、そうした履歴はすぐに消すだろうが、相手としてはその手続きを省略もできまい。
 信也は居間のサイドテーブルの上から携帯電話を取り上げて、佐藤に手渡した。
 そもそもこの二年ばかりは、携帯電話はまるでつながらなくなってしまった。交換局や中継局がひんぱんに使用不能になり、保守管理も間に合っていない。信也は、どうしても電話をかけねばならない用事があるとき、モニターに圏外の表示が出たらかつてのJRの駅前に行く。インターネットは政府が遮断しているから、スマートフォンは、通話とショートメッセージ専用の携帯電話以上のものではなかった。
 その通話とショートメッセージのほうも、この一週間ばかり、いや二週間以上は、着信はない。こちらから誰かにかけるなりメッセージを送ることもなかったから、いまこの地域が圏外なのかどうかも知らなかった。
 佐藤は信也の携帯電話を操作していたが、一分ほどで返してきた。履歴を消したのかとも問われなかった。
 若い迷彩服の男は、台所のシンクの下や冷蔵庫の中を覗いた。さらに、信也が寝室として使っている奥の和室の押し入れや、クローゼットの中もあらためた。
 二階からふたりの青年が下りてきて、佐藤に首を振った。
「いません。痕跡もないですね」
 佐藤が、若い迷彩服の男に何か目で合図した。若い男は佐藤たちを残して玄関を出ていった。
 佐藤が信也に顔を向けて言った。
「もしここに来たり、連絡があった場合は、すぐに通報を」
「どこへ?」
「民間防衛隊の二本松基地。もし電話がつながらなければ、町内会か自警団の役員に」
 家捜しを終えた四人は、二台のSUVに分乗し、荒っぽく発進させて信也の家の前の道を下っていった。
 玄関先で彼らを見送っていると、入れ違いに坂道に入ってきた軽自動車があった。この地区の町内会の役員とその夫人が来たのだとわかった。町内の農家の夫婦だ。信也の書棚から「有害図書」が奪われたときも、ふたりはこの家にきて熱心に本を検分した。
 玄関前に車を停めて、ふたりが下りてきた。亭主のほうは、少し怪訝そうな顔でSUVが去っていく方向に目を向けている。
 亭主が信也に訊いた。
「いまのは、民防か?」
「ええ」
 信也はもう市道の先で小さくなっているSUVに目をやって答えた。
「何の用だって?」
「不審者情報ですよ。近所で見かけなかったかって」
「どうしてわざわざあんたのところに?」
「有害図書を摘発されたからだ、と言っていましたよ」少し皮肉のつもりだった。「わたしはマークされているんでしょう」
「そうだな」亭主は納得したようだった。「役場でも、組合活動やっていたんだし」
 夫人が訊いた。
「沖本さん、考えてくれた?」
 信也は夫人に顔を向けて答えた。
「考えましたが、せっかくですけども」
 全部は言い切らなかったが、口調と表情から、お断りだという意味は伝わっただろう。
 土地を売らないかと、先日打診されたのだ。この小さな谷あいの住宅地には、いま八戸しか住人がいない。戦争が始まって福島の南部が戦場となったときに、四家族が宮城や岩手のほうに避難してしまったのだ。捨てていったはずはなかったのに、それらの家はやがて無法者たちの略奪に遭った。残った者たちは、略奪が始まっても見ているしかなかった。無法を詰ったり、退去を命じたりしたなら、自分の身が危なくなったろうし、自分の家も略奪されたことだろう。ここには法も秩序もなくなったのだと、理解するしかなかった。
 夫人が言った。
「こっちも、精一杯あんたの身になろうと考えた。でも、あんたの言う条件は無理。いま五十万なら出してもいい。来春に立ち退くのでいいから」
 五十万円。
 思わず鼻で笑うところだった。それは戦争前の六、七万円程度の価値ということになる。築四十五年の建物にはもう値はつかないとはいえ、それでも六十坪の土地だ。それが戦争前のカネの価値で六、七万円。その額では、ひと冬過ごすこともできない。長いこと役場勤めだった自分には、退職後は年金だけが収入だった。しかし国民融和政府成立後、分離・独立を宣言した盛岡政府は、そのひと月後には年金を廃止した。信也には換金できるような資産はもともとなかったし、働こうにも、働く場所もその体力もないのだ。いまその値で土地を売ってしまったら、冬のあいだ米を買うこともできない。灯油も車のガソリンもだ。春までに戦争が終われば、この近所にも働き口が生まれるかもしれないが、それにしても終戦まではなんとかいま手持ちの物だけで生き延びなければならないのだ。六、七万円では、それも不可能だった。
 夫人は、信也の落胆を嘲笑うかのように言った。
「来年の春は、このあたりも戦場になっているかもしれない。あたしだったら、いまおカネに換えられるんなら、いましておくけどね」
 信也は夫人に言った。
「戦争には勝つと信じてますからね。誰の話を聞いても、来年三月には再統一ですよ」
「それまで持つの?」
「耐え忍びますよ。勝って再統一されれば、年金も復活するでしょうし」
 夫人は亭主のほうに目を向けた。
 亭主は面白くなさそうだ。
「なんとかしてやろうとしてるのに」
「ありがとうございます」
 夫人が訊いた。
「どうしても駄目?」
「考えた末です」
「もしかして、おカネよりもお米とか石鹸のほうがいい? このインフレだものね。お米なら、二十キロの袋を五つ持ってきてもいい」
 信也はその新しい提案を素早く吟味した。インフレのせいで、通貨がろくに信用されなくなって久しい。最近では、とくに郡部では紙幣よりも石鹸が使われる。未使用の石鹸一個で、おおよそ米一キログラムという交換レートだ。米百キログラムということは、石鹸百個分ということになる。すぐにカネを使う予定がないなら、米なり石鹸で受け取ったほうが、インフレ対策にはいい。どっちみちひとりでは一年かけても百キロも食べきれないのだ。自分で消費できるのは、せいぜいその半分だろう。残った分で、塩と味噌と、少しの灯油が買える。しかしこの夫婦との取引きはどうにも気が進まなかった。やせ我慢してもいい。どうしてもそれ以上の値がつかないなら、地元のほかの知り合いに買ってもらうという手もないではない。
 信也はけっきょく言った。
「ほんとうに、申し訳ないですが」
 亭主が夫人に顔を向けて、顎をしゃくり、運転席へ回った。
 もう話は無駄だ、と言っている。
 夫人は助手席のドアを開けながら言った。
「この冬を越すのは、きついと思うよ。元気で再統一を迎えられたらいいけど」
 信也は同意すると言うようにおおげさにうなずいた。
 夫人が助手席に乗り、車はすぐに発進して坂道を下っていった。信也はふたりの車が坂道を下りきり、市道に出て左折したところまでを見送った。車が見えなくなってから時計に目をやると、午後の五時になろうとしていた。日没まではまだ少し間があるが、明るいうちに夕飯の支度をすべきだろう。夕飯と言っても、乾麺を茹で、野菜のおひたしを添えるだけのものだが。
 裏庭のかまどに水を入れた鍋をかけ、薪の用意を始めた。かまどは去年、ガスが停まったときに、古いコンクリート・ブロックで作ったものだ。薪は市役所時代の兼業農家の同僚からもらっている。最近は、放棄された民家の廃材も拾ってきていた。
 うちわで焚きつけの炎を慎重に育て、薪に炎を移した。やがて薪も勢いよく燃え出した。

 ふと、裏庭に続く里山のほうで、ひとの声が聞こえた。ひとことだけだ。言葉は聞き取れず、男か女のものかも判然としなかった。声が聞こえたのだから、複数で蔵場山の鞍部に拓かれた山道を歩いているようだ。
 信也はまた勝手口から台所に戻った。台所のテーブルにひとり分の食器を置いたところで、裏庭に靴音があった。ひとが入ってきたらしい。山の側から、裏庭に? 誰が、なぜ?
 信也は勝手口のドアに目を向けた。
 また民間防衛隊か? それとも略奪? 強盗だろうか?
 わざわざひと目のない裏手の山から接近したのだ。用心すべきだった。鍋を運ぶのに両手がふさがるから、いまドアは半開きだ。閉じて施錠するか。ドアの内側には、金属バットが立てかけてある。もう手を伸ばして、バットを用意するか。いや、神経質すぎるかもしれない。略奪が横行したのは、内戦が始まった直後のことだ。いまは多少は落ち着いている。
 躊躇しているうちに、靴音がしなくなった。ドアのすぐ外で立ち止まったようだ。
 ドアが二回ノックされ、外から声が聞こえた。
「ごめんください」女性の声だ。「沖本さんのお宅でしょうか?」
 勝手口には表札は出していない。どうしてここが沖本の家だと知っている? どうしてわざわざ勝手口に来る?
 信也は、いぶかりつつ応えた。
「はい。どちら?」
 口にしながら、信也はさきほどの民間防衛隊の男が探しているという女性の名を思い出していた。酒井真智。その女性が、ほんとうに自分のところに逃げてきたのか?
 ドアが、きしむ音を立てて外側に開いた。勝手口の外に、女が立っている。四十歳くらいだろうか。旅行着のような服装で、登山帽のような帽子を手にしていた。髪は短い。その後ろに、女の子がいる。子供のほうの歳は、十一、二か。
 女が、緊張した面持ちで訊いてくる。
「沖本さんですか?」
「はい」逆に訊いた。「酒井真智さん?」
「あ」と、女は脅えたような顔となった。「もう来てるんですか」
「民防は帰りました。家捜しをしていった。この家に来ると、情報が行っていたらしい」
「もう」と女は悔しげな吐息をもらした。心当たりがあるのだろう。その通報に。密告者に。
 女は唇を噛んでから、信也をまっすぐ見つめて言った。
「酒井真智です。酒井史子の娘です」
 やはりか、と信也は相手を見つめ返した。面影がある。酒井史子の。
 信也は言った。
「知っています。酒井史子なら」
 口にしてから、それは馴れ馴れしすぎる呼び方だと気づいた。取り繕おうとしたが、その前に女が続けた。
「父は酒井淳一です」
「淳一も」言い直した。「お父さんも、知っています。まず入って」
 酒井史子と淳一。そのふたりとは、若いころ親しかった。ふたりが結婚する前からの知り合いであり、結婚してからも、しばらくはつきあいが続いた。
 信也は言った。
「ご両親のことは、よく知っています。お父さんのお葬式にも行った。あのとき、小さな女の子がいた」
「たぶんわたしです。この子は、わたしの娘です」
 酒井真智の後ろにいる女の子と目が合った。母親の腰にすがりつくかっこうで、信也を不安そうに見つめてくる。
 酒井真智が、少し早口になって言った。
「追われているんです。ご迷惑はわかっていますが、ひと晩泊めていただければ、明日の朝、日が昇る前に出て行きます。物置でもかまいません」
「まず上がって、奥で休んで」
「ありがとうございます」
 ふたりは、勝手口の三和土に身体を入れた。背中に荷を背負っている。娘は運動着のような服を着ていた。もしかすると、仙台からの道のりの大半を歩き詰めだったのかもしれない。幹線道路をはずれ農道や山道を使って。
 酒井真智が、娘だという子供の背を押して、靴を脱がせ、台所に上らせた。ついで自分自身も。信也は、裏庭で湯をわかしていることを思い出した。
 信也は酒井真智に訊いた。
「お腹は空いていない? うどんを茹でようとしていたんだ」
 酒井史子の娘となれば、他人行儀な口調は必要ないだろう。職場で、若い女性職員を相手に話していたときの調子でいいはずだ。
 酒井真智は少し顔を赤らめ、娘に目をやってから言った。
「ごちそうになります」
「ほかには何もない。素うどんだけど」
「外で火にお鍋がかかっていましたが」
「あれで茹でるところだった」
「手伝います」
「茹で上がるまで五分くらいかかる。まずはそっちの居間で休んで、顔も洗うといい」
「はい」
 信也はふたりに洗面所の場所を教えた。先に女の子が洗面所に向かった。
 信也は台所の食器棚からグラスを出し、居間の長椅子の前のテーブルに置いた。お茶の用意はないし、子供のためのソフトドリンクもないが、さいわいこの町の上水道は、問題なく使えている。信也はグラスに、ヤカンから水道水を注いだ。
 女の子が洗面所から戻ってくると、真智が居間を出た。
 信也は水を女の子に勧めた。女の子は一気にグラスの水を飲み干して言った。
「ありがとうございます」
 明瞭な口調だ。遠慮しすぎていないし、さほど子供っぽくもない。顔の不安も、いくらか薄れたようだ。
 酒井真智が居間に戻ってきて、長椅子に腰をおろし、グラスの水を子供同様の勢いで飲んだ。
 真智が、水を飲み干してからまた信也に礼を言った。
「ありがとうございます。両親のお友達という以上のことを知らない方に、こんな無理なことをお願いしてしまって」
 信也は酒井真智を見つめた。真智は、化粧っ気のない、小さな顔をしていた。額が広く、一重瞼の切れ長の目と細い鼻梁。母親の面影がある。旧姓で言えば、堀内史子の。同じ大学の、仲間のひとりだ。やはり仲間のひとりだった酒井淳一と結婚して、酒井、と苗字が変わったのだ。
 あの時代の、強く記憶されていた情景が脳裏を点滅していった。知り合って、打ち解けて、彼女の微笑が親しいものになったころ、仲間たちのあいだで笑い転げたり、冗談を言い合ったりしていたころ、真剣に夜更けまで世界のありようについて語り合った時間のこと。仲間と行った広島や水俣、沖縄への旅行のこと。
 信也は記憶にひたりつつ言った。
「いいんだ。ひとり暮らしだ。二階の部屋は使っていない。あとで案内する」
「ご家族は?」
「男やもめなんだ。息子がいたけれども、家族はみな静岡で、あの震災に巻き込まれた」
「ごめんなさい」と、真智が謝った。不用意にそれを話題にしてしまったということなのだろう。
「気にしないでいい」
 水を酒井真智の持つグラスに注ぎ足してから、信也は言った。
「民防の男は、仙台から逃げたと言っていた」
 真智がグラスを持ったままで言った。
「仙台で働いて暮らしていました。内戦が始まってからは戦争に反対してきたので、追われるようになったんです。テロ組織の女だと、民防は言っていたでしょうけど」
「じっさいは?」
「平和と、再統一を求めただけです。内戦はすべきじゃないと、まわりのひとに言ったり、フライヤーを作ったりしましたが」
 たしかに、それだけでも政府にとっては十分に反盛岡政府活動、治安紊乱活動だろう。
 女の子はじっと信也を見つめている。好奇心を顔に浮かべて、真智と信也のやりとりを聞いている。
 信也の視線に気づいて、真智が言った。
「娘のユナです。十一歳になったばかり」
「ユナちゃん?」
 その子が、上体を傾けた。
「はい。ユナです」
 真智が女の子に信也を紹介した。
「沖本さん。おばあちゃんのお友達だったひと。明日まで、泊めてくれるって」
 それから、失言したという顔で信也を見つめてきた。
「まだ、ご了解をいただいていませんでした」
「そのつもりだ」と信也は言った。「だから、上げたんだ」
「ご迷惑、ほんとうに申し訳ありません。警察や民防に知られたら、沖本さんにも累が及ぶのに」
「わたしなら、知人の娘さんを泊めた、ですむ。警察や民防が危険視するようなことは、していないし」信也は話題を変えた。「民防の男は、真智さんが高麗人と結婚したと言っていた」
「ええ。日本の旅行代理店のソウル支社で働いていたときに、向こうで知り合って結婚し、ユナが生まれたんです」真智は首を傾けた。「結婚相手がそうだということ、気になります?」
「まさか」
 真智はかすかに安堵を見せた。
「崔という苗字の男性です。チェ・インファ。この子の苗字は父方のものを継ぎました。なのでこの子の正しい名前は、チェ・ユナなんです。日本人にも通じる名前がいいと、この名前をつけました」
 漢字では、由奈、と書くのだと真智が言った。
 真智がわざわざ娘の苗字について話したのは、自分の苗字が実家の酒井のままだからだろう。高麗では、結婚しても女性は苗字を変えないと聞いている。
 信也は訊いた。
「ご亭主は、いまは?」
「亡くなったんです。結婚して四年目で、ピョンヤン近くの高速道路で交通事故に巻き込まれて」
「どんなお勤めだったの?」
 訊いてから、詮索しすぎだろうかと心配した。
 真智は答えた。
「土木の技師です。夫が亡くなったとき、由奈は二歳だったし、わたしは勤めを辞めていました。外国で子育てしながらの生活がやはり苦しくて、日本に戻ってきたんです」真智はいったん由奈に目をやってから、続けた。「夫の家族は、とてもよくしてくれたんです。向こうの友達も、ほんとうに親身になってくれました。でもわたしは夫の死でとても落ち込んで、いま思えば神経がかなり危ないところでした。切実に母の支えが必要だったんです。帰国して東京の母のもとでしばらく過ごしました。それから仙台に仕事を見つけて移ったんですが」
 真智は、信也もよく知っている農産物専門の商社の名を口にした。戦争で農業のインフラが打撃を受けているが、逆に農産物商社の仕事は増え、多忙だという。内戦となってからの真智の仕事は、供給が難しくなっている肥料や飼料、農業資材等を、宮城県内の農家を回って個別に受注し、手配して配送する業務とのことだった。
 信也は言った。
「お母さんは、戦争が始まってから亡くなったと聞いた」
「ええ。東京で、うちの近くも戦場になったときに。わたしはそのときはもう仙台で働いていたんです」
 真智の目が赤くなってきた。由奈が、心配そうに真智の横顔を見つめた。
 信也は立ち上がって言った。
「火を見てくる」
 真智は信也を見上げてきた。
「手伝います。何かできることはありませんか?」
「薪を扱うことはできる?」
「なんとか」と真智が立ち上がった。「由奈はここにいて」
 裏庭に出て薪の位置を火かき棒で調節してから、信也は真智に訊いた。
「明日の朝、ここを出て、どうするつもりなの?」
 真智が、あまり確信なげな顔で答えた。
「なんとか軍事境界線を越えようと思っています」
 軍事境界線を越える……。
 たしかに境界線は、この二本松市から二十五キロほど南にあって、あとわずかと言えないこともない。しかし、簡単に行き来できる場所でもない。
 その軍事境界線は、内戦が始まり、国土が分断された結果生まれたのだった。
 そもそもあの戦争のあと、国連決議に基づいて平和維持軍が日本に進駐し、当時の政権と軍は解体された。旧政権に抵抗していた野党勢力がまとまって、新たに国民融和政府が生まれ、いったんは平和が訪れた。
 しかし戦争が終わってひと月もたたないうちに、こんどは内戦が始まった。平和維持軍による占領を受け入れず、国民融和政府をかつての敵国の傀儡政権とみなす旧政権支持者たちが、民兵隊を組織し、国内の方々で軍事行動を起こしたのだ。この軍事行動を支持し、軍需物資を送り込む国家や海外の団体もあった。
 北日本の軍事行動はすぐに統合され、盛岡に政府を樹立するまでの勢力となった。盛岡政府は旧日本政府の正統後継政権を自称し、傀儡政権の打倒を国内の旧政権支持層に呼びかけている。盛岡政府が使う暫定的な国名は、独立日本、である。
 平和維持軍は、軍事力では盛岡政府を圧倒している。しかし国民融和政府は和平協議による再統一を基本方針としているため、大規模な軍事作戦には出ることができない。侵攻や攻撃があった場合だけ小規模な戦力を小出しで戦う戦術の繰り返しなので、盛岡政府側の武装勢力を決定的に撃破することができないのだった。分断は固定化されている。
 いまそれぞれの支配地域の境界線は、おおよそ福島県の双葉町から郡山、会津若松、そして新潟県新潟市を結ぶ線である。
 いっぽう西日本は、そもそも戦争の発端となった南海大震災で大きな被害を受けていたが、こちらにもやはり国民融和政府と平和維持軍に対抗する勢力がある。中国地方の内陸部と四国の一部が、現在彼らの支配地域だった。
 ただし北と西日本のそれぞれの地方でも、国民融和政府と、平和維持軍による暫定的な占領を支持する市民はいて、停戦と平和、再統一を求める運動は続けられていた。真智も、その運動に参加するひとりということになる。
 信也は訊いた。
「軍事境界線を越えて、そのあとは?」
 真智が答えた。
「越えることができれば、東京を目指すつもりです。知り合いも多いし、なんとか東京でなら、生きて行けます」
「東京か」
 東京は、あの戦争のあと、占領する平和維持軍の統治下にある。国民融和政府も東京に置かれているが、その統治権は、東京を除外されていた。
 平和維持軍の統治下にあるが、東京が完全に平和で安全な都市になっているわけではない。外国軍の占領と、国民融和政府を受け入れない日本人によって、抵抗活動が続けられている。盛岡政府と同じく、外国軍の即時撤退と完全独立が、抵抗活動側の要求であり主張だ。東京の住人の一部は、これを支持している。
 平和維持軍の進駐直後は、行政機関や占領軍に対しての破壊活動、テロ活動が活発だった。いまは多少穏やかになったとはいえ、完全に収束したわけではない。東京の地下に潜った抵抗活動組織が、ことあるごとに平和維持軍の拠点にロケット弾を飛ばし、外国企業の商業施設で爆弾を炸裂させている。これに対して、平和維持軍による抵抗組織の摘発作戦も苛烈に続いていた。また平和維持軍は、分離を宣言した地方から、難民に紛れて抵抗組織が侵入することを何より警戒している。東京に入域することは容易ではない。
 信也は訊いた。
「あちらに行く越境許可証は持っているの?」
 真智は首を横に振った。
「いえ、危ないと思ってすぐに逃げたので、用意もしていません」
 この半年あまり、戦闘は膠着しており、それぞれの支配範囲にさほど変化はなかった。だからこれらの支配地域間でもひとの動きが完全に遮断されていたわけではなかったし、流通も細々と続いていた。少なくとも北に人質となる家族がいる市民であれば、占領下東京のすぐ外までは、行くことが不可能というわけではなかった。盛岡政府側の警察が発行する越境許可証があれば、相手かた検問所では、時間もしくは日数制限つきの通行許可証をもらえる。
 信也は言った。
「知っていると思うけど、東北道は郡山の北で不通になっている。国道四号線は、やはり郡山の北で検問がある。列車は福島止まりで、動いていない。検問のない道路もあるのかもしれないけれど、詳しいことはわからないな」
「浜通りのほうはどうでしょう?」
「常磐線も常磐道も不通だ。汚染されている帰還困難区域だから、軍も避けている。歩いて抜けようとすれば、放射線を浴びることになる」
「やはり境界線を越えるのは、難しいですか?」
「いったん会津のほうに向かって、日本海側からという手はあるかもしれない。だけど、きょうはあちらで戦闘があったようだ。空爆の音がした」
「あ、その音はわたしも聞きました」
「ここまではどうやってきたの?」
「福島市の手前までは、トラックに乗せてもらって」
 仲間に送ってもらった、ということなのだろう。
「あとは、夜になってから、幹線道路をはずれて歩いたんです」
 歩いたのか。想像したことだったが、信也は感嘆した。十一歳の子供と一緒に、夜道を歩いてきたのか。福島市の北からここまで、三十キロほどはあるだろう。
 信也が思ったことを察したか、真智は言った。
「二晩がかりでした。昼間、ヒッチハイクをするわけにもいきませんでしたし」
「かえって危なかったかもしれない。農作物の窃盗団もいる。略奪をやってる連中もいる」信也は気になっていることを訊いた。「わたしのところに来ることは、仲間から漏れたんだよね?」
「いいえ、近所のひとに、以前何かの拍子で、母の友達だったひとが二本松市役所に勤めている、と話したことがありました。民防は、わたしがいなくなったと知って、そのひとに訊いたのでしょう。ここに来るとは、誰にも話していませんし、だいいち一昨日まで思いついてもいませんでした」
「逃げたときは、どこに向かうつもりだったの?」
「どこって……。とにかく急いで仙台を離れようとしたので、それ以上のことは考えていませんでした。軍事境界線を越えるしかないと思ったのは、逃げて仲間に相談した後です」
「なんとか軍事境界線を越えたとしても、東京に入るのはまた別問題だ。入域許可証が必要だ」
「近くまで行けば、支援組織に頼れるかもしれません」
「軍事境界線をなんとか抜けたら、あとは、平和維持軍に早く発見してもらって、保護されるのがいいんじゃないかな」
「見つかったら、追い返されると思うんです。北からの難民に紛れて、武装勢力や工作員が侵入してくることを警戒していますから」
「男ならともかく、女性と女の子だ。平和維持軍は、難民キャンプに連れていってくれると思う」
「キャンプに入ってしまったら、簡単には出られないでしょう。美浦のキャンプには、十万人の難民が長いこと収容されたままです」
 それは耳にしている。内戦が始まって後、北日本からは多くの市民が難民となって日本の、盛岡政府側から言わせれば占領地域へ向かった。しかし東京もインフラの多くを破壊されたし、占領軍支配地域でもかなりの割合の農地が放棄された。国民融和政府には、難民がすぐに住む場所や食事、そして必要な者への医療を提供する余力がないのだ。難民キャンプに入れておけば、とりあえず世界各国から最低限の食料と医薬品は届く。内戦開始当初は、難民を受け入れてくれる国も多かった。総計で六十万人ぐらいが外国に避難した。いまはもうほとんど外国には受け入れてもらえないらしい。
 現在は、希望する先が国内であれ、キャンプを出るためには、専門的な技能を持っていて、健康な身体であることが必要だった。審査は厳しい。だから、難民キャンプとしては最大の茨城県美浦のキャンプでは、いまだに十万人がテント暮らしを送っているのだ。真智の話を聞いた限りでは、向こうで必要とされる何かの専門技能を持っているようではない。キャンプを出る順番はあとになる。
 たしかに、と信也は薪の炎に目をやりながら思った。決死の越境の先が難民キャンプだというのであれば、それはいささか空しい逃避行だ。生命を賭けるほどの選択なのかという気持ちになる。やはり勧められない。
 信也は、現実的な解決の道を提案した。
「由奈ちゃんは、十一歳と言ったね。女性と十一歳の子供がもしテロ活動に参加したからといって、重罪とはならないんじゃないかな。刑務所送りになるかもしれないけれど、そこで停戦、平和になるのを待つという選択肢はない?」
「こちらに残るという意味ですか?」
「うん」
「わたしは」と真智がいったん空に目を向けてから言った。「娘もですけれど、たぶん刑務所に送られることはないでしょう」
 声は妙に重く聞こえた。
「捕まったら、無罪を主張するということ?」
「いいえ。その逆です。わたしたちには、それは許してもらえない」
「高麗人と結婚したから? 由奈ちゃんの父親が高麗人だから? そういうことかな?」
「それだけなら、まだ救いがあるでしょうけど」
 かまどの薪が崩れた音がした。信也は、かまどの中に新しい薪を二本入れ、熾を火かき棒でかきまわして酸素を送った。
 立ち上がると、真智も立ち上がって信也を見つめてきた。
「わたしは、運動の主だった地下メンバーの名前と連絡先を、ほとんど知っています。記憶しているんです。警察も民防も、わたしを追っているのは、それが理由です」
 信也は、真智の言葉の意味を少し考えた。つまり、真智は運動の活動家や支援者の生きた名簿であり、住所録ということか。真智の頭の中に運動メンバーのファイルがある。となれば、警察なり民防はどんな手段を使ってでもそれを開き、真智から情報をすべて聞き出そうとするということだ。
 黙ったままでいると、真智がつけ加えた。
「由奈も、運動のメンバーの顔と名を知っています。運動の集まりは、多くの場合、由奈もいる場所でするしかなかったので。由奈は記憶力がとてもよくて、一度目にしたものを細かなところまで言葉で再現できます。知らない文字も、書き出すことができます」
 信也は自分が想像した情景に、かすかに身震いした。母親だけではなく、娘のほうにも、その危険があるのか。危険を確実に呼び寄せる理由を持っているというのか。
 信也は、また火かき棒で熾に隙間を作ってやった。
 真智が、自分の罪を告白するかのような口調で言った。
「わたしたちが捕まると、北日本で反戦運動に加わっている何十人も、いえもっと多くのひとが、同じように捕まることになります」
 また酒井真智の母親の面影が浮かんだ。十八歳からの数年間の、ごく近いところにいたときの堀内史子。彼女は二十歳の夏、インドシナ難民救援運動に参加し、タイの難民キャンプに行ってボランティアとして活動したのだった。六〇年代とはちがってすでに時代は、若い世代の政治や社会への関心を危険視していた。世の中に関心を向けず、ひたすら消費に励むことが処世術として称揚されていた。そんな時代に、彼女は社会を見ていた。地球に意識を向けていた。信念に従って行動することに、躊躇しなかった。そういう同世代が、自分のごく身近なところにいたのだった。
 真智が言った。
「捕まるか、難民キャンプかというのが最後の選択なら、難民キャンプに行きますが」
「パスポートは?」
「内戦が始まったときに没収されました」
 湯が沸いてきた。
 この件は、あとで話すのでもいい。信也は鍋の蓋を取ってから、真智に言った。
「手伝ってくれるかな。台所に長ねぎがあるんで、刻んでおいて。冷蔵庫には、小松菜のおひたしがある」
 真智が少し驚いた様子を見せた。
「冷蔵庫が、使えるんですね。こちら、停電は?」
「しょっちゅうだ。だから、むかし設置したソーラーパネルの配線を変えて、冷蔵庫と、温水器専用の電源にした」
「ご自分で?」
「電気工の知人に頼んで」ふと思いついて言った。「お風呂は無理だけど、シャワーなら使える。あとで使いなさい」
「うれしいです。汗だくで山の中を歩いてきたので」
 真智はこくりと頭を下げて、勝手口から家に入っていった。
 素うどんの夕食を三人で囲んだ。
 信也が、この家で他人と一緒に食事をすることなど、妻が死んで以来なかったことだった。
 乾麺はひとり分余計に茹でた。由奈がお代わりし、真智も残った半分を食べた。四人分では足りなかったと、信也は自分の誤りを意識した。
 食べ終えると、真智がていねいに言った。
「ごちそうさまでした」
 由奈も、信也に頭を下げて言った。
「ごちそうさま」
「由奈」と真智が椅子から立ち上がりながら呼びかけた。「後片付けを手伝って」
 いい、と言う間もなく、由奈も立ち上がった。
 ふたりが台所のシンクの前に立って、手際よく食器と鍋を洗った。
 テーブルに戻ってきたところで、信也は真智に言った。
「お母さんのことを、思い出す。いや、お父さんのことも。わたしは、ふたりと親しかった」
 真智が微笑した。
「母から何度か、沖本さんのお名前を聞いていました。アルバムには、お友達と写した写真が何枚もありました。広島とか、水俣とか、沖縄とか。沖本さんは、記念写真ではたいがいわたしの両親から少し離れたところに立って、笑っていました」
 記憶力がいいというのはほんとうなのだ、と信也は感嘆した。たぶん自分も同じ写真を持っているが、たしかに仲間と旅行して記念写真を撮るときは、自分はふたりから離れた。ふたりがはっきりカップルとわかるようにだ。大学に入って知り合った当初から、似合いなのはあのふたりだと自分は感じていた。
 信也は言った。
「何度か仲間で旅行をした。たいがいお母さんが提案し、旅行の手配などもみな引き受けていた。まるで旅行代理店みたいだと、仲間は言っていた」
「そうからかわれたってことも聞いています」
「からかったわけじゃない。そういうスキルにみな感嘆していたんだ。だから何度も、自分では思いつくこともできない場所へ、一緒の旅行ができた」
「学生時代、初めて行く場所はたいがいこの仲間が一緒だったって言っていました」
「あの当時、お母さんは、インドシナからの難民の救援活動に関わっていた。お父さんもだ。お母さんは、救援団体に入って、タイの難民キャンプにボランティアに行ったことがあった。さすがにそのときは、一緒には行けなかった」
「沖本さんたちが働いて、母がタイに行くための費用を出したんですよね」
 そうだった。そういうことがあった。
「仲間たちが自動車工場で一カ月働いて、給料をお母さんに渡した」
「そんなことまで」
「お母さんがすることを、できる範囲で支援したかったんだ。あのころは、自動車工場で働くといい給料がもらえた。もちろんわたしは、全部資金カンパはしなかった。自分の生活費の分は残した」
「それが当然です」
「仲間四人が、働いてカンパした。そのひとりが、お父さんだった」
「それにしても、母はそんなことをみなさんにお願いしていたんですね。たかったみたいに」
「そんなふうに言っちゃいけない。でも、それをするのが当たり前のような仲間だった。あのときの仲間のうちのふたりが、まだ東京にいる」
 由奈がとつぜん口を開いた。
「久保人志、東京都新宿区。加藤智明、東京都世田谷区」
 それが、いま自分が口にしたあのころの仲間のうちのふたりの名だったので、信也は驚いた。
 信也は訊いた。
「どうして知っているの?」
「ママが」と由奈が言った。「おばあちゃんの写真を見せてくれて、おばあちゃんの手帳も見たからです」
 真智が弁解するように言った。
「母が残したものを整理しているとき、見せたんです。東京にいるお友達の名前も住所も、こうやって覚えてしまった」
 由奈が少し得意そうに言った。
「番地も部屋の番号も、電話番号も言えます」
 真智が言った。
「ママが、思い出してもいいと言ったときだけ思い出して。そうじゃないときは、言わないで」
 由奈が、はっと失策を悟ったような顔となった。
「はい」
 前にも真智から同じ注意をされていたのだろう。自分の記憶力をひけらかすな。そのひとたちの名前を不用意に口にするなと。
 この記憶力ではたしかに、と信也はかすかに脅えつつ思った。真智と由奈は、反盛岡政府活動に関するデータのファイルそのものだ。民防も警察も必死で追う。ふたりのどちらかの身柄を確保するだけで、この地方の反政府活動は、息の根を止められる。真智は、供述を拒むだろう。しばらくのあいだは、追跡側と真智との、意志の強さをめぐる根比べとなる。たぶん真智は屈伏する前に、意識を失う。ついで追跡者は、由奈を試す。由奈も、母親の指示に従うか苦痛に耐えるか葛藤するが、しかし最後には……
 そのとき、また爆発音が聞こえた。
「あ」と由奈が短く叫んで、ソファの隣りの真智の腕に抱きつき、首をすくめて天井や窓に目をやった。
 爆発音の方角は、夕刻近くに聞いたときと同じだ。少し南寄りの西。距離はあのときよりも近いかもしれない。それとも夜になって雑音が減ったせいで、音が大きく聞こえたのか。
「大丈夫だ」と信也は由奈に声をかけた。「ずっと遠くだ」
 真智が訊いた。
「この昨日きょうと、また戦闘が起こっているんですね?」
 真智たちは、仙台を出たあとニュースに接してはいないのだろう。信也は答えた。
「今朝のテレビでは、とくに何も言っていなかったけれど、でもあれは砲撃か爆撃の音だ。何か動きがあるんだね」
 テレビ放送は、いまは仙台の放送局からの電波しか入らない。ただ、ニュース番組は盛岡政府の宣伝放送だし、中身は国民融和政府の非難が多い。しかも一日のうち八時間ほどしか放送していない。生活必需品の配給の知らせと、道路の通行情報や公共交通機関の運行情報だけは、放送に頼るしかないのだが。
 信也はテレビのリモコンを手に取って電源を入れた。放送はなかった。青い画面が出ているだけだ。もし今夜このあと放送があるとしたら、夜の九時だろうか。
 信也は、由奈を安心させるために言った。
「大きな戦闘か攻撃があったのだとしたら、臨時のニュースか速報が流れる。大きなものじゃないんだろう。ここでは、脅えなくても大丈夫だ」
 真智は何か懸命に考えている様子を見せ始めた。明日、この家を出たあと、軍事境界線を抜けることは決して容易ではないと、あらためて思い至ったのかもしれない。
 真智たちが仙台から逃げ出したときは、まだ新しい軍事衝突は起こっていなかった。でもいま、すでに境界線上の会津方面でおそらく衝突が始まった。きょうの爆発音は、地上戦の前触れかもしれない。明日には、軍事境界線の両側で、双方の部隊が動くかもしれない。境界の全線が、完全に封鎖されるかもしれない。たとえ越境許可証を手に入れたとしても、抜けることは難しくなる。
 由奈がぐったりしてきた。そうとうに疲れているようだ。
 解決策を見つけ出すまで、ひと晩ある。信也は真智に言った。
「二階に案内する。眠る支度をして。そのあとシャワーを使うといい。使えるお湯の量は、無制限じゃないけど」
 真智が、由奈の背をなでながら言った。
「ほんとうにお世話になります」
 信也は立ち上がって居間を出ると、玄関脇の階段に向かった。二階にはふた間あって、ひとつは息子の部屋だ。机もベッドも、そのままにしてある。もうひとつが客用の部屋だった。何もないが、押し入れには布団がふた組入っている。信也は真智と由奈を客用の寝室に入れて言った。
「民防は、夜にまた来るかもしれない。靴を枕元に用意しておいて、来たらすぐ窓から逃げて。窓を開けると、薪棚の屋根だ。屋根から、裏庭に下りられる。あとは、来たときの道に逃げて、藪の中に隠れてやり過ごすんだ」
「沖本さんは?」
「相手をして、時間を稼ぐ」
「布団が敷いてあれば、匿ったとばれてしまいますね」
「気にせずに、すぐに逃げるんだ。いいね。わたしは、何も知らないで通す。知人の娘さんとお孫さんを泊めただけだ。この戦争の中では、よくあることだ」
 来たら通報しろと命じられているし、それで終わるとは考えられないのだが。
 真智は小さく頭を下げ、由奈に言った。
「シャワーを借りましょう」
 うん、と由奈が応えた。

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佐々木譲
1950(昭和25)年、北海道生れ。1979年「鉄騎兵、跳んだ」でオール讀物新人賞を受賞。1990(平成2)年『エトロフ発緊急電』で山本周五郎賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞を受賞。2002年『武揚伝』で新田次郎文学賞を受賞。2010年『廃墟に乞う』で直木賞を受賞する。著書に『ベルリン飛行指令』『制服捜査』『警官の血』『暴雪圏』『警官の条件』『沈黙法廷』『裂けた明日』などがある。

佐々木譲

新潮社
2022年10月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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