生涯作家であり続けた著者が幼き日々を描いた、自伝的掌篇集

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あこがれ

『あこがれ』

著者
瀬戸内 寂聴 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784103112297
発売日
2022/09/29
価格
1,650円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

生涯作家であり続けた著者が幼き日々を描いた、自伝的掌篇集

[レビュアー] 佐久間文子(文芸ジャーナリスト)

 昨年十一月、九十九歳で亡くなった瀬戸内寂聴の最後の作品集。収録作品で一番新しいものは「新潮」二〇二一年十一月号掲載の「雨雲」で、亡くなる直前まで、生涯、作家であり続けた。

「ハアちゃん」と呼ばれて過ごした幼女のころの記憶がつづられる。「ハアちゃん」の周りの世界は小さく、両親や姉、親族、近所の人々のあいだに流れる空気は、陽だまりを思わせ、筆致も優しく穏やかなものだが、記憶のあちこちに、この小さな女の子が、やがて夫のもとから出奔し、作家になっていく、そのきっかけと思える不穏な断片が埋め込まれている。

 表題作の「あこがれ」は、徳島の生家の近くにあった連絡船の発着所の思い出を描いた掌篇。昼間、「眠った象」のようにひっそり停泊している白い船は、夜、出航となると、電球をつけて満艦飾となることを女の子は知っている。所用で須磨に行く父を見送りに行って、見知らぬボーイに抱き上げられ、甲板を回った日の記憶は輝きに満ち、あとには、気持ちのたかぶりと、未知への強いあこがれが残る。

 幼い「わたし」の仲良しは履物屋の「久おじ」で、仕事をしている久おじの隣で、わたしはその日あったことを飽きず話し続ける。誰かに聞いてもらうことで、その日のできごとが自分の経験になることを、それと知らないまま、わたしは実践している(「履物屋の親友」)。

 父親が保証人になって家が差し押さえられたことも、祖父が旅芝居の役者と出奔、一度も家に戻らないまま亡くなったことも、大叔母の変死や、母が空襲で焼死したことさえも、幼き日々のうつくしさをまったく濁らせない。

 九十六歳、九十七歳、九十八歳。一歩一歩、亡き人たちのいる世界に近づいていると感じながら、作家は、彼らのいた日々の幸福な記憶を、夢を見るように描き続けた。

新潮社 週刊新潮
2022年11月10日号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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