深夜にもかかわらず、病院の中は慌ただしかった。患者なのか、患者の家族なのか、年配の女の人が看護師と大声で何かを言い合っていた。若い医師が駆け足で処置室の中に入っていった。姿は見えないが、どこかの部屋から痛みを訴える大きな声が聞こえた。眼鏡をかけた受付の若い男は左手で受話器を持ち、右手で書きなぐるようにメモをとっていた。彼女は受付の男が受話器を置いたタイミングを見計らい、あの、と声をかけた。しかしすぐに次の電話が鳴り、取り合ってもらえなかった。通りかかった看護師にも声をかけたが、声が小さすぎたのか、彼女には目もくれず歩いていった。
ここで操作が再び私に戻った。近くにいる人間に何度か話しかけてみたが、誰も彼女の話を聞かない。仕方がなく、廊下を奥のほうへと進んだ。いくつか並んだ診察室の前を通り過ぎ、第二CT室と書かれた部屋を右手に見ながら細長い廊下を歩いていった。進むにつれて人気がなくなり、やがて誰の声も聞こえなくなった。診療エリアから出たのか、途中から廊下の明かりも途切れた。それでも奥へ進んでいった。廊下は不自然なほど長かった。
「どうしましたか」
突然声が聞こえ、思わず息を呑んだ。イヤホンをつけていると、まるで自分のすぐ後ろに誰かがいるかのようだ。テレビの中の彼女も短く悲鳴を上げた。彼女が振り向く。すぐ近くに、白衣を着た年配の男性が立っていた。頭髪には白髪が混じっていて顔にはシワが目立ち、左頬のあたりに大きなシミがあった。シミのかたちには特徴があり、長野県のかたちによく似ていた。
「面会ですか」
初めてまともに話を聞いてくれそうな人が現れ、安心したのだろうか。彼女は少しほっとした様子だった。面会ではなくて、と彼女は答えた。気付いたら記憶がなくなっていて、こんな時間に申し訳ないけれど、できれば診てもらいたいのだと彼女は言った。
突拍子もない話だが、医師はすぐに事情を呑み込んだようだった。
「それは心細かったでしょう。ついてきてください、すぐに診てあげますからね」
医師は病院の奥のほうへ歩き出した。診察室は逆ではないかと彼女が聞くと、医師は先ほどの言葉を繰り返した。
「ついてきてください、すぐに診てあげますからね」
不審に思った彼女は、その場から動かなかった。すると前を歩いていた医師が振り返り、彼女にゆっくりと近付いてきた。
「どうかしましたか。早く処置しないと手遅れになるかもしれませんよ」
何か様子がおかしかった。どこからか、逃げろ、という声が聞こえた。その声に背中を押されるようにして、彼女は走り出した。
ここで操作が私に戻った。
「怖がらないでください、すぐに済みますからね」
株式会社河出書房新社「文藝」「Web河出」のご案内
http://www.kawade.co.jp/np/bungei.html
常に最新鋭の作家たちが「現在/現代」(いま)を表現した作品を届けるとともに、新たなる才能、そして表現を「現在/現代」(いま)を生きる読者に届ける。
河出書房新社の本のポータルサイト。書評、解説、対談、連載などなど、本にまつわる様々なコンテンツを掲載しています。
関連ニュース
-
文芸書に新しい波 バンドとコラボ、ボカロPによる小説、投稿サイト+楽曲化 小説×音楽に注目
[ニュース](日本の小説・詩集/ミステリー・サスペンス・ハードボイルド/エッセー・随筆)
2020/09/26 -
芥川賞・直木賞の候補作が発表 太宰治の孫にあたる石原燃に注目集まる
[文学賞・賞](日本の小説・詩集/歴史・時代小説)
2020/06/17 -
「世界一受けたい授業」で話題 宇佐見りん『推し、燃ゆ』は「一番新しくて古典的な青春の物語」
[ニュース](日本の小説・詩集/ライトノベル/エッセー・随筆)
2021/04/03 -
本屋大賞候補作『お探し物は図書室まで』に注目 人生を変える一冊とは[文芸書ベストセラー]
[ニュース](日本の小説・詩集/歴史・時代小説/ミステリー・サスペンス・ハードボイルド)
2021/02/27 -
2017年を書評で振り返る シャンシャン、藤井四段、北朝鮮ミサイル、元SMAP、カズオ・イシグロまで[後編]
[ニュース](日本の小説・詩集/政治/海外の小説・詩集/外交・国際関係/将棋・囲碁/世界史/図鑑・事典・年鑑/ミステリー・サスペンス・ハードボイルド/社会学/妊娠・出産・子育て)
2017/12/28