死刑囚の写真、死刑執行予定日も公開するアメリカの事例 『死刑のある国で生きる』試し読み

試し読み

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 世界は死刑廃止へ向かっており、現在も死刑を行なっているのは独裁国家や一部の後進国だけである――。そうした風潮のなか、先進国で死刑制度を維持する二つの国、アメリカと日本は常に批判にさらされ、死刑廃止を求められてきた。しかしそれは本当に唯一の答えなのか?

 著者はアメリカ、フランス、スペイン、日本を訪れ、死刑囚や未決囚、仮釈放中の殺人犯、加害者家族、被害者遺族を取材し、それぞれの国における死刑の意味に迫っていく。ここでは、死刑囚の顔写真や死刑執行予定日までをホームページに公開し、執行の瞬間を死刑囚の家族と被害者遺族、そしてメディアが見守るアメリカの事例を紹介する。

 ***

処刑まで、あと一カ月

 錆びついた分厚い鉄格子の扉が、鈍い音を立てながら、ゆっくりと横に開いた。
 目の前に現れた広い空間の中央には、年季の入った白い面会室があった。一人の人間がやっと入れる電話ボックスサイズの小部屋が、横一列にずらっと二〇部屋ほど並んでいる。この時、私以外に訪問者はいなかった。
「彼なら、もう中にいるわよ」
 面会室で控えていた女性係官が言った。正面の小部屋の中をまじまじと見つめると、色褪せた白い道着のような服を纏う黒人男性がいた。ゆったりと腰掛けていて、こちらを見てニコリと笑った。左側の小部屋にもう一人いた。こちらに背を向けた白人男性で、誰かと立ち話をしている様子だが、近くに人の姿はない。彼には何かが見えているようだ。
 そこから二つ先のボックスに歩を進めてみた。瞳の大きい白人男性と目が合った。
 ハメルに違いない……。
 入口まで案内をしてくれた広報官が、いくつかの注意事項を簡単に説明した後、立ち去った。
 私は、軽く頭を下げ、その男性と挨拶を交わした。正面にある頑丈なガラス窓が、彼と私を隔てている。ガラス窓には穴がなく、触れることはもちろん、お互いの声を聞くこともできない。腰を下ろす前に、左側にある電話機の受話器を外し、窓越しの男性に話しかけた。思ったよりも緊張していたのか、私の第一声はぎこちなかった。
「こちらの声、ちゃんと聞こえますか」
 彼も同じく緊張していたようで、頬が少し引き攣っているように見えた。
「すみません、その受話器、音が小さいので、反対の受話器で試してもらえませんか」
 なんて透き通った声だろう……。それが、彼に対する私の第一印象だった。その声を聞き、瞬時に思った。彼となら話ができる。威圧的で挑発的なトーンであれば、その後の取材は難しい展開になったかもしれない。


ハメル死刑囚に取材する著者(ロバート・ハースト広報官が撮影)

 今度は右側にある電話機の受話器を持ち上げ、「どうですか」と尋ねると、「ええ、大丈夫です」と彼は微笑んだ。私は、持ち込んだビデオカメラのボタンをオンにし、彼の手前に事前に設置してもらったICレコーダーが赤く点滅していることを確認した。
 二〇二〇年二月一九日、アメリカ南部テキサス州ポランスキー刑務所──。死刑囚ジョン・ウィリアム・ハメルは、ここで八年と八カ月の時を過ごしていた。
 私と同じ四四歳の彼は、もうすぐ帰らぬ人となる。処刑まで、あと一カ月を切っていた。

死刑は時代遅れの産物か

 犯した罪への罰として、死刑が存在する。それは、人間が社会を維持するために、長年かけて作ってきた慣習なのだと思う。しかし、その刑罰が科されるかどうかは、全世界共通でないばかりか、国や地域によっても異なる。死刑に絶対的な基準など、存在しうるのだろうか。
 昨今、世界の多くの国々では、死刑はもはや時代遅れの産物のように語られる。凶悪殺人犯であろうと、大規模テロの実行犯であろうと、国家は、そのような人間を処刑しないことを常識にしつつある。
 国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」が毎年発行する『死刑判決と死刑執行』(二〇二一年版)によると、死刑を「すべての犯罪に対して廃止」している国は一〇八カ国。「通常犯罪のみ廃止」している国は八カ国。「事実上の廃止」は二八カ国だという。
 これら、死刑を実質的に廃止している国は、合計一四四カ国に及ぶ一方、死刑制度を維持する「死刑存置国」は、発展途上国や独裁主義国を中心とする五六カ国になる。これら存置国の中に、先進的な民主主義国家が二つある。二〇一九年の一年間で、合計二二人(前年二五人)を処刑したアメリカと、合計三人(同一五人)の死刑を執行した日本である。
 私は長年、高度生殖医療や安楽死など、人間の「誕生」と「死」を巡る現場を数多く取材してきた。人はみな、それぞれの生き方があり、死に方がある。第三者が他人の誕生や死の決定を促すことは望ましくないと考え、私は常に客観的な視点でこれらの問題に寄り添ってきた。
 しかし、同じような「生と死」にまつわる決定であっても、死刑はどこか違う匂いがした。なぜなら、そこには「尊厳」が感じられなかったからである。

罪と罰の均衡

 政治犯を死刑にすることには多くの人が反対することだろう。しかし、誰かを殺したら死刑になるのは、人として当然ではないのか。極刑に反対する人々は、万が一、伴侶や子供や両親が殺された場合、どう感じるのか。殺人犯を死刑にしてほしいと思わないほうが、道徳に反する考えではないのか。
 たとえ犯人を恨んでも、法治国家においては、被害者遺族が自らの手で犯人を裁くことはできない。ならば、国に責任を持って処罰してもらうほかないだろう。国家には「正義」を実現する義務があるはずだ。死刑のない国々は、どのように罪と罰の均衡を保っているのだろうか。
 私は、死刑を完全に廃止した欧州で、かれこれ二五年以上、生活している。しかし、死刑については欧州人と意見が合わないように感じている。それは私が法律家でも人権活動家でもなければ、欧州のような人権教育も受けたことがなく、自らの感覚だけを頼りにこの制度を眺めてきたからだろうか。死刑というテーマについては、欧米人と積極的に議論することを避けてきた。
 欧州では、人と人のつながり方が日本とは大きく異なる。他人に干渉しない個の社会は、一見、冷ややかだが、犯罪者の命さえも尊ぶ側面が見られる。それは、キリスト教による信仰が影響しているからなのかもしれない。
 一方の日本は、個人でなく、集団のつながりに重きを置く。一見、温かいが、犯罪者に対して欧州よりも厳しい罰を与えている。そこには、世間や共同体のルールに反した者には、けじめとしての死を覚悟させなければならないような、日本独自の価値観があるからなのか。

死刑に共通の価値観はあるか

 死刑は、本人が望まなくても、第三者の判断で「合法的に」宣告される。私は、殺人を犯した人間に対して拭いきれない忌避感がある一方で、国家が人間の命を奪うことは残酷過ぎるのではないか、との矛盾した思いも持ち続けてきた。
 死刑制度が犯罪抑止につながるとか、死刑廃止こそが人権の尊重であるとか、一般的な存廃の議論も重要だろう。しかし私が知りたいのは、多くの国々が世界の潮流として、死刑廃止を決めてきた中で、日本がその実現に向かわない理由、そしてその潮流に乗る必要がそもそもあるのかどうかだ。それを各国の現場を取材しながら見極めたい。
 そのためには、それぞれの土地に生きる人々の声を聞き、価値観を探り、なぜ死刑を必要とするのか、あるいは、必要としないのかを自らの眼で判断し、考えてみなければならない。そして、この世界に「普遍」と呼べる価値観があるのかも探ってみたいと思っている。
 とにかく、分からないことばかりだった。日本よりもまず、海外の現場に足を運んでみたいと思った。日本人である私が、一旦、日本人の感覚から離れるべきだと考えたからだ。

刑法犯のオンラインサーチ

 先進的な民主主義国家において、死刑制度を維持し、死刑囚が二〇〇〇人を超えるアメリカ合衆国。中でも、執行数が他州と比較できないほど多い、人口約二九〇〇万人の南部テキサス州を訪れることにした。
 ネットで調べると、同州の刑事司法省(Texas Department of Criminal Justice、通称:TDCJ)の公式ホームページが検索のトップに現れてくる。連邦制のアメリカは、連邦とは別にそれぞれの州が立法・行政・司法機関を持つが、死刑も同様に「連邦」と「州」の二つのレベルに分かれている。
 連邦の死刑については一九七二年から停止されていたが、一九八八年、連邦最高裁が再開を認めた。それ以降、死刑が執行されたのは、二〇〇三年三月のジョージ・W・ブッシュ政権下での三件のみ。しかし、トランプ大統領政権下の二〇二〇年七月、一七年ぶりとなる死刑が執行され、わずか一人の大統領の下で合計一三件執行された。
 その他はすべて、州による死刑になる。テキサス州刑事司法省のホームページを詳しく見てみた。
 刑法犯を検索できる「オンラインサーチ」があった。受刑者の氏名、テキサス州刑事司法省から与えられた「#」で始まる受刑者番号、連邦政府のデータベースとなる受刑者番号(SID)、性別、人種などを入力すると、刑法犯の情報が出てくる。
 さらに、そこには「死刑囚監房(Death Row)」と書かれた項目がある。この中にある「死刑囚」の文字をクリックすると、彼ら全員の一覧表が現れてくる。横一列に死刑確定囚の受刑者番号、刑法犯情報、姓、名、生年月日、性別、人種、死刑確定日、出身郡、犯行日が表示されている。それが縦に二〇九列、つまり二〇九人(二〇二〇年三月六日更新)が並んでいた。

死刑執行予定日も公開

 驚いたのは、「死刑執行予定日」という項目も記されていることだ。アメリカでは、死刑判決から一定の年数が経つと、死刑囚に、いつ死刑場に送られるのかが知らされる。とはいえ、順番はばらばらで、判決が下された者から順番に執行されるわけではない。だいたい月に二人の死刑が、このテキサス州では行なわれているようだった。
 もうひとつ、目を引いたのは、「刑法犯情報」をクリックすると、囚人服を着た死刑囚の顔写真が表示され、その下には、身長、体重、髪の色や目の色から、以前の職業、前科、事件の概要、共犯者、犠牲者の人種と性と五つの情報が掲載されていることだ。ここまで詳しい情報があると、生々しくて身の毛がよだつほどだ。
 だが、こうした情報が公開されているおかげで、私は、どのような人物に当たり、どのような取材計画を立てるべきかを前もって準備することができた。
 死刑執行が目前に迫っている死刑囚に会い、彼らの肉声を拾うこと。「予告された死」を前にした人間は、何にすがり、何を求め、何に苦しむのか。もしくは苦しまないのか。これらの話を本人の口から聞くことは、死刑の本質を知る上で、何よりも貴重な体験だと思えた。
 そして、彼らの死刑に立ち合い、最期の一呼吸を見届けることで、私が何を感じ、考えるのかを知りたいという思いもあった。すると、面会すべき死刑囚の顔がネット上に現れてきた。

 死刑囚──ジョン・ウィリアム・ハメル(#999567)
 死刑囚──トレイシー・ビーティー(#999484)

 両者ともに殺人犯で、死刑執行日が二〇二〇年三月中旬に予定されていた。この二人に会うために、スペイン北東部バルセロナの仕事場にいた私は、二月中の取材を遂行しようと思った。だが、そもそも死刑囚に会って話をすることなど、そう簡単にできるものなのだろうか……。

外国人でも死刑囚に会える国

 二〇一九年一二月二九日、テキサス州刑事司法省のジェレミー・ディーセル広報部長に連絡を取ってみることにした。出発点でつまずいてはならないと思い、最初のメールは時間をかけて丁寧に作成した。しかし、五文字にも満たない冷ややかな返事しか返ってこなかった。
 彼は、あまり長い文章を好まないのかもしれない。そこで、今度はシンプルな内容でメールを送り直すと、年明けの一月六日、次のような返信が来た。
〈よろしければ、いつでも電話をください。しかし、手続きは非常にありきたりなものです。我々にインタビューの申請をしていただき、受刑者が同意すれば、それをセッティングすることになります〉
 早速、広報部長に電話した。彼の下で働くロバート・ハースト広報官が、受話器を取った。部長は多忙を極めているため、手続きは彼が引き継ぐという話になった。希望する取材内容と取材意図を書き、一月二二日、パスポートのコピーと一緒に申請書を送った。
 一月二四日午前零時、就寝前に返事が来た。ハースト広報官は「同意」という文字をメッセージの中に太字で記入し、取材申請が通ったことを私に報告した。アメリカとスペインの時差を考えると、意外とすんなりと死刑囚の同意をもらい、取材許可を得ることができたものだと思った。
 二月一四日、バルセロナ空港から、まずは経由地のフロリダ州マイアミに向けて出発した。


死刑囚が収容されるテキサスのポランスキー刑務所(著者撮影)

続きは書籍でお楽しみください

宮下洋一
976年長野県生まれ。米ウエスト・バージニア州立大学卒。バルセロナ大学大学院で国際論修士、ジャーナリズム修士。フランスとスペインを拠点としながら世界各地を取材。著書に『卵子探しています――世界の不妊・生殖医療現場を訪ねて』(小学館ノンフィクション大賞優秀賞)、『安楽死を遂げるまで』(講談社ノンフィクション賞)、『安楽死を遂げた日本人』(以上、すべて小学館)、『ルポ 外国人ぎらい』(PHP新書)などがある。

新潮社
2023年2月20日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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