みかじめ料拒否、商工会からの孤立……マフィアに銃殺された男性の死から30年後のシチリア 『シチリアの奇跡』試し読み

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 温暖な気候と息を呑むほどの絶景、豊かな農産物が観光客を集めるシチリア島――このイタリア半島の南にある地中海最大の島は、映画「ゴッドファーザー」で描かれたようにマフィアに脅かされた長い歴史があります。

 殺害や妨害行為を厭わないマフィアからの脅迫は多くの人々を震撼させ、経済活動にまで大きな影響を与えました。そのシチリア島が、どのようにマフィアに立ち向かい、オーガニックとエシカル(倫理的)消費の最先端へ姿を変えたのでしょうか?

 10年以上にわたり、シチリアを取材したノンフィクション作家の島村菜津さんの新書『シチリアの奇跡―マフィアからエシカルへ―』から、非道なマフィアの存在とそれに立ち向かった一人の男を取り上げた章を紹介します。

自由という名の男

 一九九一年の春、イタリアの人気トーク番組に、リーベロ・グラッシという男が出演した。肝が据わった面構え、鋭いまなざし、簡素な身なり。リーベロというその名は、イタリア語で自由という意味だ。その時の動画は、今も観ることができる。
 番組中の彼の発言は、今、耳にしても衝撃的である。
 マフィアによる殺人事件がほとんど起こらなくなった現在とは違う。これと闘う捜査官や記者が次々と命を落としていた時代に、彼はひとりの市民としてマフィアの脅しになど屈しないと公言したのである。
 リーベロは、シチリア島最大の都市パレルモで縫製会社を経営していた。その肌ざわりのよい高級メンズ下着は、北伊や外国へも販路を広げていた。そんなある時、“測量士のアンツァローネ”と名乗る男から、刑務所の友人たちのために五千万リラの寄付をお願いしたい、という電話がかかってきた。典型的な、マフィアによるみかじめ料の要求だ。イタリアが好景気だった頃で、当時の円に換算すれば六百万円近かった(以下、円換算はすべて当時のもの)。
 子供たちに気をつけなさい、お前も用心しなさい。そんな再三の脅しを突っぱねつつ、彼は、同年一月十日の「シチリア新聞」に、こんな文面を寄稿した。

 親愛なる脅迫者どの
 私たちの未知なる脅迫者どのに、脅すような口調の電話や、導火線、爆弾、銃弾を買ったところで無駄ですと、お知らせしたいのです。
 なぜなら、私たちは、“寄付金”などお支払いするつもりはありませんし、警察の保護下にもあるからです。私はこの手であの工場を築き上げてきましたし、生涯をかけたその仕事を潰す気などありません。
 もし、私たちが五千万リラを支払えば、あなた方はすぐに追加の金銭を要求してくる。やがて月ごとの支払いとなり、たちまち工場を閉鎖することになるでしょう。ですから私たちは、“測量士のアンツァローネ氏”にいいえと申し上げたのです。そして、彼のようなすべての方々にお断り申し上げるつもりです。

 翌日、警察は慌てて護衛をつけたが、まもなく恐喝犯が捕まると、リーベロは自ら護衛を断った。その彼を待ち受けていたのは、商工会での孤立だった。
 当時のパレルモ産業連盟会長は、記者たちに、リーベロの行為は、シチリア産業界のイメージを傷つけたばかりか、売名ではないかと仄(ほの)めかした。
 その時代、みかじめ料について公然と語ることは完全なタブーだった。
 銀行からも、殺されたら払えないだろうから融資はできないと告げられた彼を励まそうと、設立間もない環境保護を掲げる政党「緑の連盟」は、リーベロを招いて「経済とマフィア」と題する討論会をパレルモで開くが、会場はすかすかだった。それでも諦めなかった彼は、高視聴率番組の出演依頼を受けた。
「優先されるべきは法律であり、政治であり、モラルです。しかし、最も優先すべきは、市民の合意形成の質なのです。マフィアが最初に管理したがるのは選挙で、それは彼らの武器でもある。悪しき投票箱の中身は、悪しき民主主義なのです」
 番組の中で、淡々とそう訴える彼から、もっと具体的な話を引き出そうと焦る司会者が、なぜあなたは払わないのです。あなたは狂人ですかと挑発すると、彼はこう答えた。
「私は、狂人ではありません。ただ払いたくないだけなのです。みかじめ料を払わないことが、私の企業家としての尊厳だからです」
 だが彼は、それだけを言うために出演を決意したのではなかった。持参して読み上げたメモは、シチリア第二の都市カターニアで同年の春に行われた裁判での判決文だ。この街の四大建築会社の社長たちが、地元のマフィアに多額の保護料を払っていた疑惑をめぐる裁判で、彼らが無罪とされた判決文の一部だった。
「あらゆる対話を否定することはできない。みかじめ料を払う人もいれば、みかじめ料を払わないこともできる。しかし、もし、払わなければ、遅かれ早かれ、何が起こるかわからないということを知るべきである」
 彼は、当時の財界ばかりか、司法界の腐敗した体質まで公然と批判したのだ。
 それ以前に、その四大建築会社が、パレルモの公共事業を次々と受注している事実にマフィアとの取引があると睨(にら)み、カターニア司法局へ調査を依頼した人物もいた。元治安警察総督ダッラ・キエーザ将軍だ。マフィア撲滅の切り札としてパレルモ県知事に任命された彼は、その数か月後、妻とともに殺害された。さらに、この疑惑を掘り下げ、四人の建築業者を、地上に死と災害をもたらす黙示録の四騎士にたとえた「シチリア人」誌の主宰者ジュゼッペ・ファーヴァも暗殺されていた。
 そして同年八月二十九日の朝七時半、いつものように工場へ向かったリーベロは、自宅のアパートからすぐの通りで、背後から何者かに撃たれて絶命した。

 それから、三十年の月日が流れた。
 今では、シチリア島で人が殺されるようなことは滅多にない。とはいえ、マフィアはもう存在しない、などと言える状況ではさらさらない。
 今日、内務省のマフィア対策庁は、かなり正確に組織の分布と構成員の情報を把握している。それによれば、海外への進出は顕著で、新型コロナの流行後は高利貸しや金融詐欺などが増え、むしろ活発化傾向にあるという。また、大小の組織が九県すべてに分布し、パレルモ県には最も多く、十五の縄張りに八十二の組織がある。とはいえ、個々の組織は三人から十人、最大三十人ほどで、二〇一四年の調査ではパレルモ県の構成員の総数は一五四〇人だったという。現在、島のマフィアの総数は、三二〇〇~六八〇〇人と推定されている。シチリアの人口は約四八〇万人(二〇二二年)だから、仮に五千人だとしても、ほぼ千人に一人の犯罪者のために島全体が灰色のように言われるのは心外だろう。そして調べていくうちに、シチリア人たちが、長い間、こうした偏見に苦しんできたこともわかってきた。
 シチリアの美術と自然の美しさ、人の温かさに魅了されて筆者も長年、通っていたが、この取材を始めるまで、マフィアの実体についてはほとんど無知だった。その一方で、日本では決まって「マフィアは怖くありませんか」と訊かれ続けた。
 そして、マフィアについての書物は枚挙に遑(いとま)がないが、シチリア人たちがどう向き合ってきたのかの情報はほとんどなかった。そこであえて島の人たちから、マフィアの話を訊いてみることにした。すると、そこから見えてきたのは、命をかけて闘った多くの人々がいたことだけでなく、次世代のために今も果敢に闘っている人々の姿だった。
 九二年、マフィア大裁判を実現した二人の判事が次々に爆殺されるという衝撃的な事件は、イタリアの歴史を変えた。翌年、四半世紀も逃亡し続けていた大ボスが逮捕され、これまで自分たちを利用してきた政府への怒りのメッセージともとれるマフィアによる連続テロが終わると、シチリア島での物騒な事件は一気に減少。長年、この国をむしばんできた政治腐敗からの脱却へと人々を駆り立てた。
 こうして、九五年、マフィアからの押収地をオーガニックの畑に変えてワインやオリーブオイルを作るという挑戦が始まる。暴力によって奪われた土地を取り戻し、法律を改正し、市民の手で、島に新たな雇用を創ろうというその活動が、ようやく実を結ぼうとしている。そして、この試みは、シチリアから、今や世界へと拡がろうとしていた。
 二〇〇〇年を迎えると、有名なボスたちの出身地であるいくつかの町では、マフィアに侵食された負のイメージを払拭しようと地域おこしが始まった。また、マフィアについての正しい情報を伝える博物館が各地に生まれた。
 グローバル経済の中で大量生産と大量消費が生み出す世界的な食の均質化に反旗を翻(ひるがえ)すイタリアのスローフード運動を取材した。その『スローフードな人生!』(二〇〇〇年、新潮社)を執筆する中で深く魅了されたのが、野菜がおいしく、在来作物も多いシチリア島だった。そこで、若者たちが二〇〇五年に始めたもうひとつのユニークな運動に出会った。彼らは、みかじめ料不払い宣言をする店を募り、これを応援する消費者とつなげたのである。日本でも、国連が掲げたSDGsの号令の下、エシカル(倫理的)という言葉を耳にするようになったが、自然に負荷をかけず、生産者や加工に携わる労働者からも搾取しない商品を選んで買おうというこの消費者運動は、八〇年代、アメリカやイギリスから世界へ拡がった。「買い物は、財布による投票だ」という掛け声とともに、消費行動は政治や企業の腐敗を是正する一手段であるといった認識が深まる。マフィアは、農産物の流通や加工、危険な廃棄物の不法投棄、麻薬や武器の密輸に広く関わっている。シチリアの若者たちの活動は、普段の買い物がマフィア撲滅につながることを示し得た点で、画期的なエシカル消費運動だった。そして、そこから生まれた小さな旅行社が提案するのは、知られざるマフィアとの闘争史を伝え、旅先での食事や宿泊、買い物をする場所もすべてみかじめ料フリーという、世界初の社会的な旅への誘いだ。
 マフィアは、封建制から資本主義への移行そして、イタリア統一期の混乱の中で生まれたという。労働者を管理し、抑えつける必要からそれは生まれ、第二次大戦後の闇市や都市開発、さらには冷戦体制が、これを成長させた。歴史家たちが指摘するように、民主国家の重たい歩みにマフィアが寄生しているのならば、シチリアで今、始まった挑戦は、真の民主主義を実現していくための草の根運動だと言える。
 次の世代のために故郷の島を変えていくことを諦めない、そんな彼らの姿は、新しいシチリア人像を見せてくれることだろう。そして、私がこの取材にのめり込んだのは、それが、決して不運な歴史を抱えた遠い島国の物語とは思えなかったからだ。

続きは書籍でお楽しみください

島村菜津
1963(昭和38)年、長崎生まれ、福岡育ち。ノンフィクション作家。東京藝術大学卒。94年『フィレンツェ連続殺人』でデビュー。2000年、伊のスローフード運動を紹介した『スローフードな人生!』がブームの火付け役に。著作に『スローフードな日本!』、『スローシティ』等。

新潮社
2023年3月9日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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