第1話「おつやのよる」を全文公開 町田そのこ『あなたはここにいなくとも』試し読み

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 大切に思う恋人が出来て、その人と結婚したいと思うようになった時、何のためらいもなく自分の家族を恋人に紹介できる人はどれくらいいるでしょうか。

 もし家族を恥ずかしく思う気持ちがあれば、紹介はおろか、結婚そのものに踏み切れないかもしれません。

 そんな悩みを抱えた女性が、町田そのこさんの新刊『あなたはここにいなくとも』(新潮社)では描かれています。収録される全5篇のテーマは、恋人に紹介できない家族、会社でのいじめによる対人恐怖、人間関係をリセットしたくなる衝動、わきまえていたはずだった不倫、そして、ずっと側にいると思っていた幼馴染との別れ。

 “人生の迷子”になってしまった主人公たちの前に全編を通じて登場するのが、「おばあちゃん」です。「おばあちゃん」は陰に日向に、主人公を優しく導いてくれます。

『あなたはここにいなくとも』の中から、家族との確執を抱いたまま、大好きだったおばあちゃんの通夜に出席する女性が主人公の「おつやのよる」を全文公開します。町田そのこさんだからこそ描ける、もつれた心を解きほぐしてくれる温もりに満ちたストーリーを、存分に味わってください。

おつやのよる

 えー、うちの『ごちそう』って何かって?
 わたしの家は断然、すき焼き! 家族みんな大好きやもん。わたしは皮が特に好き。くたくたに煮えた白菜を皮で巻いて食べるのが最高と思……え? 何? 皮は皮やろ。とり皮。うちね、わたしが好きやけん鶏皮だけ買い足すと……え。何で笑うん。牛? いやそれは東京の話やろ。違うと? そりゃ、学校の給食もそうかもしれんけど、でも『普通』は鶏肉やろ? え、違う? みんな何で笑うん。失礼やない? ねえ、失礼やって!
 小学五年生のわたしが、顔を真っ赤にして叫んでいる夢を見た。あれは、昼休みのくだらないやりとりでのことだった。
『みんなの家のごちそうは何?』
 それぞれがビーフシチューやお寿司、豚の角煮などを挙げる中でのすき焼きは、決して悪いメニューではなかったはずだ。けれど、鶏肉を使うと言った上に『鶏皮』が好きとドヤ顔で言ってしまったがゆえに、めちゃくちゃに笑われた。そして小学生特有の残酷さで、わたしは卒業まで『トリカワ』という不名誉なあだ名で呼ばれたのだった。
「何で今頃、こんな夢を見るかな……」
 天井を眺めながら、苦く笑う。くだらない記憶が蘇ったものだ。二十七になったいまなら鼻で笑い飛ばせることだけれど、あの当時のわたしには天地がひっくり返るほどの事件だった。大好きな料理が正しくないと笑われ、しかも初恋のひとだった福元くんに『貧乏くせえ』と言われて、どうして平気でいられるだろう。明日から学校に行けない、と泣きながら帰ったのを覚えている。結局、福元くんはわたしのことを最後まで『トリカワ』と呼んで、そのしつこさに恋心は消え、逆に憎しみに変わったんだったっけ。
 そしてあの事件は、わたしに大きなトラウマを植え付けた。あれ以来わたしは、我が家の常識が世間の常識と違うのではと、びくびくするようになってしまった。世間との『ズレ』を見つけては絶望し、ひとり泣き咽んだ。他の家に生まれていたらきっとこんな思いはしなくてすんだのに、と。
 よそはよそ、うちはうち。そんな言葉を何度となく聞かされて育ったし、それは正しいと分かっているけれど、トラウマは長くわたしを苦しませた……って、たかが夢のことで何をしんみりしちゃってるんだ。
「ああ、そうか」
 ふと気付いて体を起こし、ベッド脇のチェストに置いていた葉書を手に取る。きっと、昨日これが届いたから、古い記憶が表に現れたのだ。
 絵手紙用の和紙葉書で、表書きには達筆な字でわたしの名前が書かれている。裏返すと手描きの水彩画が目に飛び込んでくる。わたしの地元である門司港の風景だ。空と海、質の違ううつくしい青を、関門橋が分けている。透明感のある空の部分に、やはり綺麗な字で『あなたのしあわせな顔を見せてちょうだい』とある。送り主の名前は『池上春陽(はるひ)』。わたしの祖母の名だ。
「こんなので、里心が湧くと思うなよ」
 小さく呟いてみるも、いまごろの海は綺麗だろうなあと思う。コバルトブルーの水面を渡る、やわらかな潮風。この時期だと鰺が美味しいはずだ。しかし祖母はいつも、やたらに酸っぱい南蛮漬けにしてしまうのだ。それも大量に。実家にいた当時は嫌で仕方なかったけれど、いまは少しだけ食べたい気がする……ってダメだダメだ。思い出すな。
 祖母は今年で九十四になるが、スマートフォンやSNSをも使いこなす。頭も体もしっかりしていて、趣味は水彩画とフラダンス。そんなひとがメールではなくわざわざ手紙という形をとったのは、紙の質感や重みがどれだけ心に残るか分かってのことだろう。すぐにデリートしてしまえるメールにはない存在感を、あのひとはよく知っているのだ。
「くそう。してやったりの顔が目に浮かぶわ」
 お蔭で嫌な思い出まで夢に見たわ。葉書をチェストの上に置いて、ベッドから這い出た。カーテンを開けると、窓の向こうは曇天が広がっていた。九州では梅雨明け宣言がなされたと、昨日のニュースで言っていた。門司港の空は、きっと青く澄んでいるのだろう。帰りたいとも思うけれど、帰れない。祖母はきっと、わたしがひとりではなく恋人を連れて帰って来るように願っていて、わたしはどうしてもそうすることができないから。
 がたんと音がして、驚いて見ればリビングに続くドアの隙間から章吾(しょうご)が顔を覗かせていた。ふわりとコーヒーの香りが鼻を擽る。
「わあ、びっくりした。いつ来たの、章吾」
「さっき。よく寝てたから、起こせへんかった」
 手にしていたマグカップのコーヒーを音を立てて啜り、「清陽(きよい)もコーヒー飲む?」と言う章吾は、わたしが三年ほど付き合っている恋人だ。勤めている広告代理店の、先輩でもある。飲む、と言いながらリビングに行くと、テーブルの上にたくさんの袋が置かれていた。覗きこむと、わたしの好きなものが詰め込まれている。
「おお、わたしのお気に入りの赤ワイン。こっちはチーズとローストビーフ。あ、ギッフェルのパストラミサンドに胡桃ベーグル! 何これ。最高の休日が約束されてるじゃん」
 思わず顔が綻ぶ。わたしたちは営業職で、お互いいつも仕事に追われている。隙間を縫うようにして会っていたけれど、ここ二ヶ月はそれもできなくなっていた。章吾がエリア拡大を目的とした新規の支店に異動になり、立ち上がりのための業務に忙殺されていたのだ。ようやくまとまった休みが取れそうだと連絡がきて、ふたり揃って二連休を取った。せっかくだから温泉旅行に行くのもよかったけれど、疲れが残っているであろう章吾に無理をさせたくないので、わたしの部屋で好きなものを食べて飲んで、観たかったゾンビドラマをだらだら観ることにしていた。
「一緒に買い物に出るつもりだったのに、もう行かなくっていいね。章吾、ありがとう」
「これだけ食料があれば、二日間引きこもり可能やで。社用電話も既に電源を切ったった」
 ふはは、と章吾が笑う。清陽も切っておき。ゾンビに喰いつかれる瞬間に着信するほど無粋なもんはないで。わたしはそれに、「もう切ってるし」と親指を立てて返す。この二日間を、わたしがどれだけ楽しみにしていたと思っているのだ。章吾もそうであるといい、と願いながら昨晩必死で部屋を片付けた。
 章吾の持ってきてくれた目の前の品々を見るだけで、にやにやが収まらない。きっと、わたしと同じくらい楽しみに思ってくれていたに違いない。
 章吾がコーヒーの入ったカップを渡してくれ、それを受け取る。飲んでひと息ついたところで、寝室でプライベート用のスマホの着信音がした。カップを片手に寝室に戻り、枕元に転がっていたスマホを取り上げる。表示された名前は、母だった。考えるより先に通話ボタンを押していた。嫌な予感、というものを感じたような気もする。「もしもし」と言うより早く、静かな母の声がした。
『清陽。おばあちゃんが、亡くなったよ』
 体温なのだろうか、何かがひゅっと落ちるような感覚があった。視界が一瞬、色彩を無くす。まだ夢の中だったか。だって、そんなことあり得ない。でも、母は淡々と続ける。朝ご飯を一緒に食べて、おばあちゃんはワイドショーを観はじめたんよ。私は自分の通院支度をしてて、さあ出かけようと思っておばあちゃんに声を掛けたら、寝とってね。でもちょっと様子がおかしくて口元触ったら息してなくて、慌てて救急車呼んだんよ。老衰って、病院の先生が。
 つい二時間ほど前に、祖母はこの世を去ったのだという。呆然としたわたしに、帰って来いと母が言う。葬儀社さんとの打ち合わせはこれからやけど、今晩がお通夜で、明日がお葬式ってことになるんやないかな。あんたも早よ帰って来て、手伝って。
 それから一時間後。わたしは、クローゼットの隅に押し込まれたままだった喪服を詰め込んだバッグを持って、新幹線に乗っていた。トンネルを通過するたびに、窓ガラスに自分の顔が現れる。化粧をしていないせいか生気がなく、泣き出しそうにも見える。いや実際、泣きそうだった。
 新大阪駅まで送ってくれた章吾と、別れ際に喧嘩をしてしまった。祖母の通夜の席だけでも出たいと言った章吾を、わたしが断ったのだ。そういうの、いいから。やめてよ。
 その言い方が悪かったと思う。あまりにつっけんどんで、吐き捨てるという表現がぴったりな口ぶりになった。でも、祖母の死に動揺していて、そして章吾の言葉が怖くて反射的に言ってしまったのだ。
『へえ。迷惑ってことやな。そういうつもりなら、ええよ』
 章吾は怒ると無表情になり、声がとても静かになる。いままで聞いたことのないほど低く平坦に言った章吾は、慌てたわたしの言葉になどもう耳を貸す気はないようだった。
『清陽にとってのおれって、どうでもいい存在やねんな』
 章吾は踵を返すと、一度も振り返らずにひとごみの中に消えていった。追いかけなければいけないと思ったけれど、わたしは動けずに背中を見送って、それから新幹線に乗った。
 ありがとう、ついてきて。そう言うべきだったのは分かっている。章吾の申し出をありがたく受け入れればよかったのだ。章吾の気持ちは嬉しいし、何よりも祖母はとても会いたがっていた。地元を離れて大阪に住まうわたしが誰とどんな風に暮らしているのか、知りたがっていた。
 でも、わたしにはそうする勇気が出なかった。こんなときでさえ。

町田そのこ
1980年生まれ、福岡県在住。2016年「カメルーンの青い魚」で第15回「女による女のためのR-18文学賞」大賞を受賞。17年、同作を含む短篇集『夜空に泳ぐチョコレートグラミー』でデビュー。『52ヘルツのクジラたち』で2021年本屋大賞を受賞。他の著書に『ぎょらん』『うつくしが丘の不幸の家』『星を掬う』『宙ごはん』「コンビニ兄弟」シリーズがある。

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※この記事の内容は掲載当時のものです

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株式会社新潮社のご案内

1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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