『「AV女優」の社会学』『ギフテッド』の鈴木涼美による青春小説 『浮き身』試し読み

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『「AV女優」の社会学』『ギフテッド』の鈴木涼美による青春小説『浮き身』が刊行。

 桐野夏生や島本理生から高い評価を受ける本作は、開業前の無店舗型風俗店(デリヘル)を舞台に描かれており、作者の実体験を反映させた物語となっている。

 これまでに身体を売る女性を考察し、「性」の商品化に対する批評を論じた『「AV女優」の社会学』『身体を売ったらサヨウナラ』などを発表している鈴木が執筆した小説はどんな内容なのか?

 今回は試し読みとして本作の冒頭を一部公開する。

 ***

 私の住んだ部屋の最寄駅から、路線によって一駅か二駅、県内で最も大きな乗り換え駅の西側の出口を出てビルの間を北側に抜け、高速道路と立体交差する小さな橋を越えると、かつて友人たちが勤めていた飲み屋がいくつも入る歓楽街が広がる。雑居ビルには常に新規の店が出たり入ったりするその小さな歓楽街を抜けてそのまままっすぐ北へ進むと、値段も外壁もいかにも平均的なラブホテルとコンビニが並んでいる通りに出る。
 十九年前の四月、私はその通りを左折して右手にラブホテルを三つ通りすぎた場所に建つ、ラブホテルより少し古いマンションの十一階で目覚めた。私の寝ていた畳の部屋は、灰色のカーペットが敷かれた大きなリビング・ルームの奥に連結する形で続いていた。リビングにあるL字型のソファは真新しく、中央のローテーブルはガラス張りの二重構造で、下の段に入れた雑誌や煙草が、上から見えるようになっていた。カウンターを隔てた台所で黒髪の男が洗っていたゴミ箱もほぼ新品で、中に誰かが何度も嘔吐したようだった。
 リビングから玄関までは広くまっすぐな廊下で繋がっていて、玄関に向かって左側にバス・ルームとトイレが、右側にパソコン部屋と呼ばれる個室があった。そこは無店舗型風俗を開業する予定の男三人が借り上げた物件で、五月の連休前に風俗嬢たちの待機場所を兼ねる事務所となることが決まっていた。男たちは残りあと約三週間で家具を揃え、クッションや仮眠用のブランケットや灰皿を揃え、パソコン部屋でホームページを整え、働く女を面接し、彼女たちを撮影してプロフィールを作り、オープンに備える予定だった。
 すでに一年近く大学に行っていなかった私が、初めて部屋に迷い込んだのは前日の深夜で、私が勤めるのと同じビルの違う飲み屋に在籍していた梨絵さんと一緒だったことを除けば、足のあたりに丸まって寝静まっていた女も、ソファで寝ていた二人の男も、黒髪の男も、知り合いではなかった。だというのに私はその日から風俗店が開業する直前までその部屋に何度も通うこととなる。その部屋から飲み屋に出勤し、その部屋に戻ることもあった。もうすぐ商売を始める部屋の、まだ何も始まっていない時間は私をからめ捕った。部屋には当面何の役割も与えられていないのだから、そこに行く理由や目的は当然私になかった。私は行く理由のあるはずの大学や役所や病院や、他のすべての場所に行かずにそこにいた。
 酸っぱい匂いのするマンションの部屋で初めて目覚めた日の前日、私は飲み屋の仕事を終えて、梨絵さんと、梨絵さんの勤める店のいい加減なボーイと連れ立って韓国料理屋の五階にある裏カジノへ遊びに行った。二十三歳だった梨絵さんは、私の店よりワンランク値段の高い店で人気のホステスで、ビル内の同じヘアメイク室を使っているうちに仲良くなった。県内出身の女ばかり多い中、同郷と気づいてからは、まだ親しい友人や頼れる男のいない私に特によくしてくれた。元ホストのボーイは梨絵さんがよく連れ回していた男で、何の悩みもなさそうと言われて腹を立てない狡猾さから、お金にもセックスにも困っていないようだった。人並みの事情があるというだけなのにやたら陰のある人間ばかり目立つ夜の歓楽街で、いかなる事情があっても明るくあることを選択する人間は男女ともに愛される。ただ私は彼のムスク系の匂いの香水が苦手だった。
 今から思えば四つも歳上だったからとも思うが、梨絵さんのすることは私の考え得る範囲の紙一枚分外側にあった。ギャンブルで賭ける金額も、客につく嘘も、男の裏切り方も、ほんの少し私の常識からはみ出していて、私はおそらく、そのような彼女に連れて歩かれることにそれなりの特権意識を持っていた。地元でははみ出したように扱われてきたはずが、大きな街の賑やかな夜に紛れてしまうと私はどこからもはみ出しておらず、むしろとても綺麗な小さな箱に入って育ったように思えた。梨絵さんの遊びは、お嬢っぽいねと言われる私の育った箱の外にあって、裏カジノに連れて行かれるのも初めてではなかった。

続きは書籍でお楽しみください

鈴木涼美
1983年生まれ、東京都出身。慶應義塾大学卒。東京大学大学院修士課程修了。小説第一作『ギフテッド』が第167回芥川賞、第二作『グレイスレス』が第168回芥川賞候補。著書に『身体を売ったらサヨウナラ夜のオネエサンの愛と幸福論』『愛と子宮に花束を夜のオネエサンの母娘論』『おじさんメモリアル』『ニッポンのおじさん』『往復書簡限界から始まる』(共著)『娼婦の本棚』『8cmヒールのニュースショー』『「AV女優」の社会学増補新版』などがある。

新潮社
2023年7月12日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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1896年(明治29年)創立。『斜陽』(太宰治)や『金閣寺』(三島由紀夫)、『さくらえび』(さくらももこ)、『1Q84』(村上春樹)、近年では『大家さんと僕』(矢部太郎)などのベストセラー作品を刊行している総合出版社。「新潮文庫の100冊」でお馴染みの新潮文庫や新潮新書、新潮クレスト・ブックス、とんぼの本などを刊行しているほか、「新潮」「芸術新潮」「週刊新潮」「ENGINE」「nicola」「月刊コミックバンチ」などの雑誌も手掛けている。

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