冷凍技術のない江戸時代に「氷」を運んだ行事を描いた時代小説 山本一力『ひむろ飛脚』試し読み

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 冷凍技術のない江戸時代の夏に、加賀から江戸まで氷が運ばれていたことをご存じですか?

 加賀で冬に降った雪を固めて氷室に貯蔵し、旧暦6月1日(現在の7月初め)に取り出して飛脚が江戸へ運び将軍に届ける「氷献上」は、とてつもない手間と労力をかけた加賀藩の一大行事でした。

 作家・山本一力が〈三度飛脚〉を題材に描いた時代小説の完結作となる『ひむろ飛脚』は、異常な暖冬による雪不足を前にして、加賀藩と飛脚宿浅田屋が頭を抱える元日の場面から始まります。雪がなければ氷もできず、来るべき夏の氷献上に暗雲が――。彼らの前には、氷の確保、献上日程や場所の調整、運搬方法の開発など未曽有の難問が立ちはだかります。

 知恵と人力でダイナミックな展開を呼ぶ山本作品の真骨頂にして最高傑作。今回は冒頭の一章を試し読み公開します。

 ***

 嘉永六年元日(1853年2月8日)。
 旧臘(きゅうろう)二十五日から続いている晴天は、年を越して元日を迎えても続いていた。
 品川沖から昇った初日は、明け六ツ(午前6時)を四半刻(30分)過ぎたころには、本郷坂上にまで届いた。
「明けましておめでとうございます」
 初日を喜ぶ声が通りのあちこちで生じた。
 朝日が照らしている地べたは、加賀藩前田家上屋敷の表御門につながる大路だ。
 参勤交代時には、前田家家臣三千人超が進む道である。道幅六間(約11メートル)は、他藩上屋敷前では例のない大路だった。
 商家が並び始める南の端から大路を北に六町(約654メートル)進めば、前田家上屋敷の南端である。
 塀に沿って東に歩くと、すぐに下り坂となった。広大な敷地を囲む塀は、途切れることなく坂下まで続く。じつに十町も下の池之端七軒町まで、高さ一間半(約2.7メートル)の長屋塀が連なっていた。
 これが上屋敷南側の様子である。敷地十万坪超といわれる上屋敷は、周囲をぐるりと回るだけでも半刻(1時間)以上を要した。
 およそ六町の商家往来の手入れは、両側に並ぶ五十六軒が受け持っていた。
 上屋敷内に詰める藩士、武家奉公人は、優に二千人を超えると言われた。参勤交代時にはさらに中屋敷・下屋敷に暮らす勤番藩士千人近くが加わった。
「この町が栄えていられるのも、前田様のお屋敷があればこそです」
 商家は一軒の例外もなく、上屋敷を一番の得意先としていた。
「前田家御用達」と書かれた樫の木札は、商い安泰が約束された御札である。
 嘉永六年の元旦は、例年にない穏やかで暖かな始まりとなっていた。初日に照らされた往来では、藤色や赤茶色の祝儀半纏を羽織った手代たちが立ち働いていた。店先と両隣前を掃き清めるためである。
 門松は松枝の濃緑と青竹の艶ある緑、そして飾りを縛る縄の薄茶色が互いの色味を競い合っている。掃除始めに励む手代たちの半纏姿もまた、元旦の本郷坂上を彩る色味の一だった。
 加賀藩の三度飛脚を務める浅田屋も、この商家の並びには欠かせない一軒である。
 国許の金沢と江戸本郷上屋敷との間は、およそ百四十五里(約570キロ)。
 参勤交代での加賀藩は、おもに北国街道から中山道を使った。
 しかし季節と天候次第では、関ケ原に出たあと東海道を上ることもあった。
 いずれの道筋でも、参勤交代では二十日から二十五日の日程を要した。
 その長き道程を、早便ならわずか四日で金沢と江戸とを毎月三度「走り」で結んできたのが、浅田屋の三度飛脚である。
 運ぶものは藩の公用文書と、公儀には届け出されていたが。
 江戸上屋敷居住を、公儀から厳命されている藩主内室に、万能秘薬「密丸」を届けることもした。
 収穫季節に限りのある特産物を献上するために、特別便を仕立てることもあった。
 なにを運ぶにしても、道中を無事に走り抜くことが、絶対の使命である。
 二百余年の長きにわたり、三度飛脚拝命を続けてこられたのが、金沢と江戸に飛脚宿を構える浅田屋だ。
 加賀組、江戸組とも御用を務める飛脚は六人。さらに控え二人を加えた八人一組だ。
 豪雪に遭遇もしたし、野分の暴風豪雨で街道が閉ざされたりもした。
 浅田屋はしかし拝命以来、一度も飛脚御用にしくじりはせず、いまに至っていた。
 明け六ツから四半刻後、浅田屋前に大八車二台が横着けされていた。
 当代の浅田屋伊兵衛は、先代から家督を譲られて四年目の、若き二十八歳である。
 上背が五尺七寸(約173センチ)ある浅田屋十一代伊兵衛は、黒羽二重に仙台平袴の正装だ。さらに肩衣をつけ、腰には前田家より拝領の脇差を佩(は)いていた。
 二台の大八車には、灘の下り酒「百万石」の四斗樽が四樽ずつ、八樽が積まれていた。
 加賀には前田家御用達の銘酒「萬歳楽」がある。この酒は前田家より年賀として、浅田屋に下されるのが習わしである。
 ゆえに元日の年賀に伺候する浅田屋伊兵衛は、縁起よき銘柄「百万石」を運び入れるのを吉例としていた。
「すべての支度は調っておりやす」
 江戸組飛脚頭の玄蔵が、伊兵衛に告げた。ふたりとも五尺七寸の長身である。背丈は同じでも、動きには大きな違いがあった。
 肩衣をつけた伊兵衛は白足袋を穿き、地べたを踏む足元は微動だにしなかった。
 玄蔵の身のこなしは軽やかだ。あるじに支度完了を告げたあとは、俊敏な動きで大八車に近寄った。
 玄蔵配下の五名の三度飛脚と二名の控えは、背筋を伸ばして「出発」の号令を待っていた。向かう先はもちろん加賀藩上屋敷である。
 この正月で二十四歳になる前田慶寧(よしやす)は、前田家次代当主ながら、徳川家第十一代将軍家斉(いえなり)の血筋を受け継いでいた。
 前田家に嫁いだ家斉の娘・溶姫が、慶寧の母である。江戸にて誕生した慶寧(幼名犬千代)の元服の儀は江戸城で行われた。大奥にて当時の将軍家斉に拝謁するという、外様大名の嫡男としてはあり得ない厚遇も賜っていた。
 家斉のあとを継いだ十二代将軍家慶(いえよし)は、慶寧を大いに可愛いがってきた。我が名の「慶」を授けて、慶寧と改名させたのも家慶だった。
 将軍から偏諱を授かるという寵愛を受けた慶寧は昨年十二月、「左近衛権中将」なる令外官に昇任した。
 二十三歳での権中将昇任は、比類なき大抜擢である。将軍の強い意向あればこそだった。
 今年の正月も慶寧は江戸在府である。
 若き権中将昇任の祝い酒として、伊兵衛は例年にも増して八樽もの灘酒を調えた。
 発注先は先代伊兵衛が付き合いを大事にしてきた、鎌倉河岸の下り酒問屋豊島屋である。
 六ツ半(午前7時)前には、上屋敷台所に向かう段取りである。二台の大八車には前田家の梅鉢紋が染め抜かれた、深紅の祝儀布がかぶせられていた。
 支度やよしと見極めた伊兵衛は、江戸組頭の玄蔵に目配せした。無言でうなずき返した玄蔵は、手に持っていた扇を大きく振った。
 バリッと小気味よい音を立てて、扇が開かれた。元日の祝儀樽運びのために誂えた、大型の扇である。
 元日の縁起にふさわしい扇を振って、玄蔵は大八車を先導し始めた。六間幅の大路の真ん中を、である。
「浅田屋さんも今年は、ひときわ跳ね上がったお祝いに向かうのだろうね」
 玄蔵が振る扇を見た米屋の手代が、仲間と小声を交わした。
 旧臘の前田慶寧権中将昇任の一件は、本郷坂上の商家に知れ渡っていた。
「なにしろ慶寧様のご母堂は、亡き家斉様の血を引いたお姫様だ」
 ますます前田様の幕府内での格が上がるのは間違いない……手代たちは商いがさらに伸びると、期待を込めた目を見交わした。
 大八車を引率する形の伊兵衛は、一歩ずつ足元を確かめながら、上屋敷通用門を目指していた。商家でいう勝手口だが、さすがは百万石の大身大名である。通用門の両端には門番が立っていた。
「お台所にて、御用人様に新年のごあいさつを申し上げる段取りです」
 用向きを了とした門番は、潜り戸から内に入り、御門のかんぬきを外し、内へと門を開いた。門は軋み音もたてず、滑らかに開かれた。
「帰り道でもまた、お世話になります」
 あたまを下げたあと、伊兵衛は先へと進み始めた。あとに従う玄蔵は扇を畳んで、門番ふたりに近寄った。
 半纏のたもとから小型の祝儀袋を取り出すと、素早い手つきで門番ふたりの手のひらに押しつけた。一分金貨二枚(二分の一両)もの、破格の祝儀だ。
 門番たちは玄蔵に礼をいうでもなく、厳めしい表情のまま六尺棒の先を内に向けた。入ってよいとの合図である。一礼をくれた玄蔵は、右手を大きく差し上げ、台所に向かうぞと、身振りで示した。屋敷の道は玉砂利敷きである。大八車を引く者も後押しする者も、両腕に力を込めた。
 台所戸口まで進んだ伊兵衛は、台所主事に用向きを伝えた。
「山田様より御指図を賜っておる」
 主事は伊兵衛を伴い、吟味部屋へと向かい始めた。大八車と飛脚と控えの八人は、台所戸口に留め置かれた。
 堅苦しさを嫌う慶寧は台所近くに普請された「観月の庵」に、みずから出向いていた。
 台所近くで食を摂れば、温かなるものは温かなるうちに食することができる。
 吟味部屋は慶寧に供する膳の、毒味をするための部屋だった。
 浅田屋の元日伺候を、用人の山田琢磨(たくま)は吟味部屋で受けることにしていた。初日の差し込む造りを、山田は縁起良しと好んでいたからだ。
 慶寧は江戸城で元服の儀を終えたあとも上屋敷に留まった。世話役として国許から差し向けられたのが山田だった。
 四歳年長の山田を慶寧は信頼し、重用した。慶寧が将軍家慶に寵愛されるに似ていた。
 上屋敷にて浅田屋と面談を続けてきたなかで、山田は同い年の伊兵衛に対し、みずから胸襟を開いた。用人という職にある者とは思えない直截さは、まさに若きがゆえだった。
 吟味部屋で山田の訪れを待ち受けながら、伊兵衛は十一代浅田屋伊兵衛を継いでからの日々を、思い返していた。
 山田が伊兵衛を重用してくれているのも、互いに三年前、二十五歳で家督相続を果たしており、境遇が似ていたがゆえである。
 東向きの障子戸から差し込む清らかな光は、まさに初日ならではだ。
 お毒味部屋は、なににも増して清純であることが重要だ。部屋に満ちた清らかな空気を存分に吸い込み、伊兵衛は目を閉じた。
 当主を継いでからの三年の子細を、順次思い返し始めた。

山本一力
1948年高知県生まれ。東京都立世田谷工業高校電子科卒業後、様々な職を経て、1997年『蒼龍』でオール讀物新人賞を受賞してデビュー。2002年、『あかね空』で第126回直木賞を受賞。その後、2012年に第1回歴史時代作家クラブ賞、2015年に第50回長谷川伸賞も受賞している。困難にあっても誇り高く生きる人々を描いて熱い支持を集め、飾らない人柄の滲むエッセイや人生相談も好評。『大川わたり』『いっぽん桜』『ワシントンハイツの旋風』『だいこん』『かんじき飛脚』『べんけい飛脚』『ずんずん!』『カズサビーチ』「損料屋喜八郎」シリーズ、「ジョン・マン」シリーズなど著書多数。

新潮社
2023年7月 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

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