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- 透明な夜の香り
- 価格:704円(税込)
元・書店員の一香は、古い洋館の家事手伝いのアルバイトを始める。そこでは調香師の小川朔が客の望む「香り」を作っていた。どんな香りでも作り出せる朔のもとには、風変わりな依頼が次々と届けられる。一香は、人並み外れた嗅覚を持つ朔が、それゆえに深い孤独を抱えていることに気が付き──。
直木賞作家・千早茜が紡ぎ出す、香りにまつわる新たな知覚の扉が開くドラマティックな長編小説『透明な夜の香り』より、一部を公開します。
***
1 Top Note
花の色がつよい。
鮮やかな赤が目を刺して、足が止まる。
あと一歩で外。あと一歩で日陰から出る。光や色のまぶしさに目がくらむのは、いつだってそういうときだ。そして、私はいつも躊躇してしまう。
単身用アパートの狭い廊下で立ちつくしていると、一階奥のドアから出てきた女性が足早に追い越していった。大きくふくらんだ紙袋が苛立ったようにぶつかる。
よろめいて、アパートの壁に肩が触れた。のっぺりしたコンクリートの冷たさが伝わってくる。温めても温めても、熱を吸い込んでいくだけの、しんと確立した無表情な冷たさ。身体の底に同じ冷たさがある。そこから、記憶がゆっくりと這いあがってくる気配を感じた。
うつむくと、たったいま自分が下りてきた階段が目に入った。白い光が最後の段にじわじわと手を伸ばそうとしている。やっぱり部屋に戻ろう。日が暮れてから出なおせばいい。この季節はまぶしすぎる。
「あんた、大丈夫?」
声をかけられて顔をあげる。蔓薔薇(つるばら)の根元にしゃがみ込む大家さんの丸い背中が見えた。片手で腰をとんとん叩きながら立ちあがる。立ちあがっても背は丸い。もう一方の手には雑草や枯れた葉っぱが握られている。
大家さんの背後には、無機質なアパートにはそぐわない英国風の湾曲したアーチと垣根があり、緑の葉を茂らせた蔓薔薇がびっしりと巻きついている。かたく閉じていた蕾(つぼみ)は、しばらく見ないうちに大輪の花になっていた。ふんだんに咲きほこる花たちは、真っ赤なペンキをぶちまけたようで目がちかちかする。薔薇は裏に住む、大家さんの趣味だ。
よっこいしょ、と言いつつもしっかりした足取りで大家さんが近づいてくる。紫色に染めた白髪をヘアネットで覆い、年中エプロン姿だ。
「やっと別れたみたいだね」
なんのことかわからず曖昧な返事をする。返事といってもうまく声がでず、言葉になっていない音の塊のような返事。大家さんは聞こえていないのかまったく気にせず、「見たかい、あの大荷物。般若みたいな顔して出ていったよ」と一階から出てきた女性が歩き去ったほうに顎をしゃくった。
「102の高田さんとこに通っていた女だよ」
察しの悪い私にやきもきしたのか、早口で耳打ちする。
「ほら、ここんところ毎晩、喧嘩ばっかりだったじゃないか。うるさいったらなかったよ。これでやっと静かになる。しかし、高田さんも困ったもんだよねえ、奥さんも子供もいるってのに。いくら単身赴任中だからって、あんなにおおっぴらに連れ込むなんてさあ」
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